関西の経済界が地盤沈下して久しいでんな。
鉄ちゃん爺やが船場の南本町で働いてた昭和40年代
まだ大阪商人も船場界隈も活気に溢れてましたで。
大阪の「船場」と云うのは豊臣秀吉が命じて商人を
集めて街並みを作らせた町家で、江戸時代から
戦前までは大阪を代表する商人の街でしたんや。
北側を土佐堀川・東側を東横堀川に・南側は
長堀川(現在は埋め立てられ消滅)・西側を
これも消滅した西横堀川に囲まれた地区を云いまぁ。
(重要文化財 日本綿業倶楽部)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
1931年(昭和6年)に完成したルネッサンス風の建物で
大阪の大空襲にもガラス1枚とカーテン1枚だけの被害。
窓にワイヤーが入ったガラスが使われているので
奇跡的に残り、戦後は進駐軍の施設に使われました。
現在は繊維会社の重役さんの社交場に利用されてまっせ。
(日本綿業倶楽部 1階フロアー)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
奥に見える銅像は東洋紡の専務だった岡常夫さんでっせ。
この建物の建築費150万円の内で100万円を遺族が寄贈
現在の金額に換算したら約50億円にもなるんだって。
昭和初期は大阪市が日本一の人口と生産額も日本一でした。
現在も語り継がれる「大大阪の時代」と呼ばれましたんや。
関東大震災の痛手から立ち上がり東京府(当時)が人口も
生産額も大阪市を追い抜いたのが翌年の昭和7年だったとか。
何せ「ガチャ万」とか呼ばれて織物の織機をガチャンと動かしたら
1万円も儲かったという時代が戦前にも戦後にも有ったそうな。
大阪では繊維業界が空前の利益を長く出す時代が続いたんだって。
だから現在は中国に圧倒される繊維業界では考えられない
若者の就職希望のナンバー1が東洋紡だったんだとか。
(1階フロアー 豪華なシャンデリア)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
「船場」では昔の建造物を保存する活動が近年盛んで
この綿業倶楽部もその一環として維持されてますんや。
この画像は予約して入場するんだそうでっけど4年ぐらい前に
鉄ちゃん爺やが無断侵入して撮影した物なんですわ。
半年前に予約しないと許可はでないとの事でした。
当日の入場者に付いて建物に入り見つかりましたんや。
そんなルールとは知りまへんでしたがな。
(生駒ビルデイング=旧生駒時計店)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
最近に成って古い建造物を撮影するフアンに人気のビルでっせ。
昭和5年完成のビルでっから綿業倶楽部より1年先輩でんな。
現在でも時計塔は現役で動いているとは、ご立派でんがな。
(芝川ビル)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
こちらは、もう一つ古い昭和2年(1927年)完成のビルでっせ。
関東大震災の経験から芝川家が鉄筋コンクリート製のビルを建てたとか。
こんな古いビルが北船場には10軒ぐらい保存されてまんねんで。
(旧大阪教育生命ビル)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
鉄ちゃん爺やの記憶が正しければ明治45年(1912年)完成
おそらく船場地区に残るビルでは一番古いんじゃなかろうかな。
現在もフランス料理のお店として使われていまっせ。
(御堂筋 本町3丁目交差点) (平成14年10月撮影)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この交差点の下には大阪市営地下鉄の本町駅がおますんや。
鉄ちゃん爺やが就職した頃はこの本町駅か淀屋橋駅で降りて
会社に向かうのがサラリーマンのステータスでしたな。
当時は大阪市の地下鉄もこの御堂筋線だけでしたんや
鉄ちゃん爺やも歩いて本町1丁目まで通勤したんでっせ。
当時はこの交差点は本町4丁目と云いましたけど。
平成の住所表示で今は本町3丁目に変わりましたんや。
(セントレジンスホテル 大阪)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
鉄ちゃん爺やが、とてもじゃないが入れない高級ホテルでっせ。
なんでも「5つ星」のホテルで1泊が数万円以上だとか。
最上階のロイヤルスイートは1泊80万円ですが如何かしら?
大阪市内では最高級クラスのホテルだとの評判でっせ。
でも、このビルは2010年(平成22年)に完成したけど
昔は世間を騒がせたイトマン(伊藤萬)の本社ビルでしたんや。
あげくに画像の右半分には北海道拓殖銀行の大阪支店がおました。
倒産した二つの会社が取り壊されて現在は高級ホテルでんな。
昔の船場商人ならゲンを担いで買い手もでまへんやろけど
昨今の外資系の企業は立地さえ良ければ気にしまへんがな。
確かに御堂筋の本町3丁目交差点の南東カドで最高でっけど。
(御堂筋交差点から 本町通りを撮影)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
鉄ちゃん爺やは地下鉄の堺筋本町が開業するまで約4年間
この道を歩いて奥の白い高層ビルのまだ先まで通勤してましたんや。
勿論、あの白い高層ビルは昭和48年に完成した大阪国際ビルで
当時は総合商社の伊藤忠商事の本社ビルがまだ残ってましたな。
この本町通りを挟んで右側を南船場と呼び反対側の左側を
北船場と呼ぶことが多かったと記憶しますんや。
概ね北船場には上場企業が多くて南船場には昔から繊維関係の
卸問屋さんや紡績関係の企業が並んでましたかな。
明治・大正の時代からこの本町通りで営業を続けている企業は
鉄ちゃん爺やが見た感じではゼロになったような感じ。
(大阪国際ビル) (1973年=昭和48年完成)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この高層ビルが完成した当時は西日本一の高さを誇るビルで
高さ125mで船場のあちこちから見えたもんでっせ。
流石に最近は高層ビルが乱立して目立たなくなりましたな。
左側には当時の第一勧業銀行の本町支店の入るビルが
この建物は昭和の40年代とあまり変わってない感じ。
この撮影している場所が堺筋・本町2丁目の交差点でっせ。
(大阪国際ビル エレベーターホール)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
このビルには現在は誰もが知っているサムスン電子が
当時は三星商事だとか云う名前で入居してましたで。
鉄ちゃん爺やも22階のトワイニング紅茶を扱う
片岡物産の大阪支店へよく通ったもんですわ。
白い大阪国際ビルの奥に小さく顔を覗かせているのが
丸紅の大阪本社ビルで、確か一昨年ぐらいに大阪駅前へ
引っ越しして本町通りから戦前からの会社が消えましたな。
稲西と云う繊維会社が本町2丁目の角におましたけど
現在は不動産会社で稲西ビルの名前だけが残っているかも。
(船場に残る 明治屋大阪ビル)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この明治屋さんのビルは大正13年完成だとされてまっせ。
おそらく「船場」に残るビルでは1~2を争う古い建物でんな。
鉄ちゃん爺やが船場に勤めていた時代に先輩からこんな話。
「五綿 八社」と呼ばれる繊維関係の大企業が有ったんだよ。
「五綿」とは船場出身の繊維会社が総合商社に成ったそうですわ。
丸紅 伊藤忠商事と戦前は同じで「紅忠」がスタート
伊藤忠 戦後に丸紅と別れいち早く総合商社に転身
日綿實業 現在は日商岩井と合併し「双日」となった
東洋綿花 現在は豊田通商のグループで再スタート
江商 兼松と合併し現在は兼松の名前で存続
これら「五綿」各社は脱繊維で総合商社に転化した成功例でんな。
一方で「船場八社」と呼ばれる各社は脱繊維に遅れて大半が消滅。
「船場八社」 には鉄ちゃん爺やの知る範囲で書いて見ました。
丸永 既に倒産してしまったのか船場には無かった?
竹村綿業 竹村帝商から帝人商事に変わってしまった
又一 この会社から暖簾分けした又一洋行のみ存続
田附 日綿實業に吸収合併されて消滅
岩田商事 既に倒産してしまったのか船場には無かった?
竹中 細々と残って居たが何処かに吸収合併された?
豊島 名古屋で当時は頑張って居たが倒産したか?
八木商店 船場八社で唯一残って現在は(株)ヤギで健在
「船場八社」は昭和40年前後に殆んどが無くなりました。
現在は(株)ヤギの名前で八木商店が久太郎町2丁目で昔からの
敷地でしかも現在も繊維関係が売上の大半とはご立派でおます。
他にも初めに紹介した伊藤萬もまだ昭和40年代は元気でした。
最後はイトマン事件に巻き込まれて平成3年に住金物産に吸収。
大阪万博の直前から大きく「船場」は変りましたんや。
大阪万博は1970年(昭和45年)でしたな。
現在は船場センタービルの名前だけが知られていますかな。
(船場センタービル)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
大阪万博に合わせて北久太郎町の北半分と唐物町の南半分を
立ち退かせて中央通りを造る事になったんですわ。
阪神高速道路と中央通りの高架部分の下に東西約1kmの
ビルを大阪市開発公社が中心になって完成させましたんや。
当初は繊維の卸問屋さんが中心のビルでしたが最近は
入れ替わりも激しくて金券ショップや小売店も増えましたな。
鉄ちゃん爺やの会社もコンピューター室が入ってましたで。
元々は西日本各地から繊維製品を仕入れる為に「船場」の
この辺りの卸問屋さんに客が多数押し掛けたんですわ。
現在はネット販売やアパレルの専門店などが発展して
こんな地方から仕入れに来るスタイルは激減しましたな。
(船場センタービル 1階)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(船場センタービル 地下2階 飲食店街)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
面白い写真を見つけましたんで写してきましたで。
船場センタービルが完成した1970年頃の船場でおます。
(船場センタービル 航空写真)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
画像の中央辺りに先程貼り付けました明治屋ビルが見えてまぁ。
その右隣に当時の第一勧業銀行本町支店のビルも写ってまっせ。
堺筋・本町2丁目の交差点がはっきりと見えてまんがな。
大阪国際ビルはまだ更地だったようで画像には写ってまへんな。
その左側に懐かしい丸紅飯田時代の丸紅本社が大きく写ってまぁ。
画像中央の「三陽」と見えるビル左側辺りの船場センタービルに
鉄ちゃん爺やが3年間だけコンピューター室長をした事務所の窓が
高速度道路の下の3階部分にチラッと写ってますわ。
左下に大阪市立・東高校の古めかしい校舎が高速道路の横におます。
現在は取り壊されて中央区役所の新しいビルに変ってまっせ。
画像がもう少し右側に2cmぐらいズレていたら鉄ちゃん爺やの
会社の本町営業所が見えるのに残念ながら外れてしまいましたわ。
「三陽」の文字の見える一つ手前にはテイジン本社ビルが
昭和48年に完成してるんでっけど、それも見当たりまへん。
そんな事からこの画像は昭和45年(1970年)頃の
ビル完成直後に飛行機から写された画像やと考えられまんな。
この懐かしい船場センタービルも2012年(平成24年)に
将来は取り壊して高速道路と一般道路を地下に移すとかの案。
立ち退き問題も絡むので早急には無理でしょうが近い将来は
取り壊される運命には有るんでしょうな。
今回は2~3年前に撮影した画像もおますのでご容赦の程。
それでは今日はこれでお仕舞いにしまひょ、 さいなら~♪
鉄ちゃん爺やが船場の南本町で働いてた昭和40年代
まだ大阪商人も船場界隈も活気に溢れてましたで。
大阪の「船場」と云うのは豊臣秀吉が命じて商人を
集めて街並みを作らせた町家で、江戸時代から
戦前までは大阪を代表する商人の街でしたんや。
北側を土佐堀川・東側を東横堀川に・南側は
長堀川(現在は埋め立てられ消滅)・西側を
これも消滅した西横堀川に囲まれた地区を云いまぁ。
(重要文化財 日本綿業倶楽部)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
1931年(昭和6年)に完成したルネッサンス風の建物で
大阪の大空襲にもガラス1枚とカーテン1枚だけの被害。
窓にワイヤーが入ったガラスが使われているので
奇跡的に残り、戦後は進駐軍の施設に使われました。
現在は繊維会社の重役さんの社交場に利用されてまっせ。
(日本綿業倶楽部 1階フロアー)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
奥に見える銅像は東洋紡の専務だった岡常夫さんでっせ。
この建物の建築費150万円の内で100万円を遺族が寄贈
現在の金額に換算したら約50億円にもなるんだって。
昭和初期は大阪市が日本一の人口と生産額も日本一でした。
現在も語り継がれる「大大阪の時代」と呼ばれましたんや。
関東大震災の痛手から立ち上がり東京府(当時)が人口も
生産額も大阪市を追い抜いたのが翌年の昭和7年だったとか。
何せ「ガチャ万」とか呼ばれて織物の織機をガチャンと動かしたら
1万円も儲かったという時代が戦前にも戦後にも有ったそうな。
大阪では繊維業界が空前の利益を長く出す時代が続いたんだって。
だから現在は中国に圧倒される繊維業界では考えられない
若者の就職希望のナンバー1が東洋紡だったんだとか。
(1階フロアー 豪華なシャンデリア)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
「船場」では昔の建造物を保存する活動が近年盛んで
この綿業倶楽部もその一環として維持されてますんや。
この画像は予約して入場するんだそうでっけど4年ぐらい前に
鉄ちゃん爺やが無断侵入して撮影した物なんですわ。
半年前に予約しないと許可はでないとの事でした。
当日の入場者に付いて建物に入り見つかりましたんや。
そんなルールとは知りまへんでしたがな。
(生駒ビルデイング=旧生駒時計店)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
最近に成って古い建造物を撮影するフアンに人気のビルでっせ。
昭和5年完成のビルでっから綿業倶楽部より1年先輩でんな。
現在でも時計塔は現役で動いているとは、ご立派でんがな。
(芝川ビル)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
こちらは、もう一つ古い昭和2年(1927年)完成のビルでっせ。
関東大震災の経験から芝川家が鉄筋コンクリート製のビルを建てたとか。
こんな古いビルが北船場には10軒ぐらい保存されてまんねんで。
(旧大阪教育生命ビル)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
鉄ちゃん爺やの記憶が正しければ明治45年(1912年)完成
おそらく船場地区に残るビルでは一番古いんじゃなかろうかな。
現在もフランス料理のお店として使われていまっせ。
(御堂筋 本町3丁目交差点) (平成14年10月撮影)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この交差点の下には大阪市営地下鉄の本町駅がおますんや。
鉄ちゃん爺やが就職した頃はこの本町駅か淀屋橋駅で降りて
会社に向かうのがサラリーマンのステータスでしたな。
当時は大阪市の地下鉄もこの御堂筋線だけでしたんや
鉄ちゃん爺やも歩いて本町1丁目まで通勤したんでっせ。
当時はこの交差点は本町4丁目と云いましたけど。
平成の住所表示で今は本町3丁目に変わりましたんや。
(セントレジンスホテル 大阪)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
鉄ちゃん爺やが、とてもじゃないが入れない高級ホテルでっせ。
なんでも「5つ星」のホテルで1泊が数万円以上だとか。
最上階のロイヤルスイートは1泊80万円ですが如何かしら?
大阪市内では最高級クラスのホテルだとの評判でっせ。
でも、このビルは2010年(平成22年)に完成したけど
昔は世間を騒がせたイトマン(伊藤萬)の本社ビルでしたんや。
あげくに画像の右半分には北海道拓殖銀行の大阪支店がおました。
倒産した二つの会社が取り壊されて現在は高級ホテルでんな。
昔の船場商人ならゲンを担いで買い手もでまへんやろけど
昨今の外資系の企業は立地さえ良ければ気にしまへんがな。
確かに御堂筋の本町3丁目交差点の南東カドで最高でっけど。
(御堂筋交差点から 本町通りを撮影)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
鉄ちゃん爺やは地下鉄の堺筋本町が開業するまで約4年間
この道を歩いて奥の白い高層ビルのまだ先まで通勤してましたんや。
勿論、あの白い高層ビルは昭和48年に完成した大阪国際ビルで
当時は総合商社の伊藤忠商事の本社ビルがまだ残ってましたな。
この本町通りを挟んで右側を南船場と呼び反対側の左側を
北船場と呼ぶことが多かったと記憶しますんや。
概ね北船場には上場企業が多くて南船場には昔から繊維関係の
卸問屋さんや紡績関係の企業が並んでましたかな。
明治・大正の時代からこの本町通りで営業を続けている企業は
鉄ちゃん爺やが見た感じではゼロになったような感じ。
(大阪国際ビル) (1973年=昭和48年完成)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この高層ビルが完成した当時は西日本一の高さを誇るビルで
高さ125mで船場のあちこちから見えたもんでっせ。
流石に最近は高層ビルが乱立して目立たなくなりましたな。
左側には当時の第一勧業銀行の本町支店の入るビルが
この建物は昭和の40年代とあまり変わってない感じ。
この撮影している場所が堺筋・本町2丁目の交差点でっせ。
(大阪国際ビル エレベーターホール)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
このビルには現在は誰もが知っているサムスン電子が
当時は三星商事だとか云う名前で入居してましたで。
鉄ちゃん爺やも22階のトワイニング紅茶を扱う
片岡物産の大阪支店へよく通ったもんですわ。
白い大阪国際ビルの奥に小さく顔を覗かせているのが
丸紅の大阪本社ビルで、確か一昨年ぐらいに大阪駅前へ
引っ越しして本町通りから戦前からの会社が消えましたな。
稲西と云う繊維会社が本町2丁目の角におましたけど
現在は不動産会社で稲西ビルの名前だけが残っているかも。
(船場に残る 明治屋大阪ビル)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この明治屋さんのビルは大正13年完成だとされてまっせ。
おそらく「船場」に残るビルでは1~2を争う古い建物でんな。
鉄ちゃん爺やが船場に勤めていた時代に先輩からこんな話。
「五綿 八社」と呼ばれる繊維関係の大企業が有ったんだよ。
「五綿」とは船場出身の繊維会社が総合商社に成ったそうですわ。
丸紅 伊藤忠商事と戦前は同じで「紅忠」がスタート
伊藤忠 戦後に丸紅と別れいち早く総合商社に転身
日綿實業 現在は日商岩井と合併し「双日」となった
東洋綿花 現在は豊田通商のグループで再スタート
江商 兼松と合併し現在は兼松の名前で存続
これら「五綿」各社は脱繊維で総合商社に転化した成功例でんな。
一方で「船場八社」と呼ばれる各社は脱繊維に遅れて大半が消滅。
「船場八社」 には鉄ちゃん爺やの知る範囲で書いて見ました。
丸永 既に倒産してしまったのか船場には無かった?
竹村綿業 竹村帝商から帝人商事に変わってしまった
又一 この会社から暖簾分けした又一洋行のみ存続
田附 日綿實業に吸収合併されて消滅
岩田商事 既に倒産してしまったのか船場には無かった?
竹中 細々と残って居たが何処かに吸収合併された?
豊島 名古屋で当時は頑張って居たが倒産したか?
八木商店 船場八社で唯一残って現在は(株)ヤギで健在
「船場八社」は昭和40年前後に殆んどが無くなりました。
現在は(株)ヤギの名前で八木商店が久太郎町2丁目で昔からの
敷地でしかも現在も繊維関係が売上の大半とはご立派でおます。
他にも初めに紹介した伊藤萬もまだ昭和40年代は元気でした。
最後はイトマン事件に巻き込まれて平成3年に住金物産に吸収。
大阪万博の直前から大きく「船場」は変りましたんや。
大阪万博は1970年(昭和45年)でしたな。
現在は船場センタービルの名前だけが知られていますかな。
(船場センタービル)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
大阪万博に合わせて北久太郎町の北半分と唐物町の南半分を
立ち退かせて中央通りを造る事になったんですわ。
阪神高速道路と中央通りの高架部分の下に東西約1kmの
ビルを大阪市開発公社が中心になって完成させましたんや。
当初は繊維の卸問屋さんが中心のビルでしたが最近は
入れ替わりも激しくて金券ショップや小売店も増えましたな。
鉄ちゃん爺やの会社もコンピューター室が入ってましたで。
元々は西日本各地から繊維製品を仕入れる為に「船場」の
この辺りの卸問屋さんに客が多数押し掛けたんですわ。
現在はネット販売やアパレルの専門店などが発展して
こんな地方から仕入れに来るスタイルは激減しましたな。
(船場センタービル 1階)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(船場センタービル 地下2階 飲食店街)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
面白い写真を見つけましたんで写してきましたで。
船場センタービルが完成した1970年頃の船場でおます。
(船場センタービル 航空写真)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
画像の中央辺りに先程貼り付けました明治屋ビルが見えてまぁ。
その右隣に当時の第一勧業銀行本町支店のビルも写ってまっせ。
堺筋・本町2丁目の交差点がはっきりと見えてまんがな。
大阪国際ビルはまだ更地だったようで画像には写ってまへんな。
その左側に懐かしい丸紅飯田時代の丸紅本社が大きく写ってまぁ。
画像中央の「三陽」と見えるビル左側辺りの船場センタービルに
鉄ちゃん爺やが3年間だけコンピューター室長をした事務所の窓が
高速度道路の下の3階部分にチラッと写ってますわ。
左下に大阪市立・東高校の古めかしい校舎が高速道路の横におます。
現在は取り壊されて中央区役所の新しいビルに変ってまっせ。
画像がもう少し右側に2cmぐらいズレていたら鉄ちゃん爺やの
会社の本町営業所が見えるのに残念ながら外れてしまいましたわ。
「三陽」の文字の見える一つ手前にはテイジン本社ビルが
昭和48年に完成してるんでっけど、それも見当たりまへん。
そんな事からこの画像は昭和45年(1970年)頃の
ビル完成直後に飛行機から写された画像やと考えられまんな。
この懐かしい船場センタービルも2012年(平成24年)に
将来は取り壊して高速道路と一般道路を地下に移すとかの案。
立ち退き問題も絡むので早急には無理でしょうが近い将来は
取り壊される運命には有るんでしょうな。
今回は2~3年前に撮影した画像もおますのでご容赦の程。
それでは今日はこれでお仕舞いにしまひょ、 さいなら~♪
変化する時代を乗り切った企業とそうでない企業では、
移り変わりが明暗を分けますね。
ボクの方が五年ほど先に生まれていますでしょうか?
S48年に会社からハワイ旅行をプレゼントされて、
出かけたのが初海外旅行でした。
1$=200円ちょっとだったと思います。
数年前は胸を張って闊歩してた企
業が今や何て事に・・・。
船場と言うと潰れた船場吉兆を思い
だしてしまいます。
企業の吸収や合併勉強させていただ
きました。
貴兄より5~6歳の年下だと思いますね。
昭和40年前半には伊藤忠商事も丸紅飯田も
1階のフロアーはまだ
国内繊維課が殆んど全部を占めていました。
伊藤忠商事は倒産した安宅産業の金へんを
吸収合併して
総合商社への道に成功しましたね。
丸紅はロッキード事件でケチを付けてからは
伊藤忠商事に今も勝てない状況ですかな。
三菱商事と三井物産は東京系の商社でこれは関西から見れば別格の会社ですね。
船場吉兆よりも5年ぐらい早く倒産しました。
船場では戦後に倒産した会社は300社を超えると云われてますね。
流通が大きく変化し、もはや古き良き時代の船場は見れなく成りましたかな。
大阪の経済は大阪万博が最後の華やかな時代でそれ以降は凋落してしまいましたね。
船場の雄と云われた伊藤忠も丸紅も本社は東京に
大阪支店も大阪駅の方へ移転してしまいました。
船場に残る大企業の本店は薬品業界の武田や繊維ではユニチカぐらいになりましたね。
大阪、万博が契機だったのですね。
復活してほしいです。
さんが連れて行ってくれました。あの頃から比べると
ホンマに大阪もずいぶんかわりました。ね昨日
昼夜今回初めてのところで歌いました
知り合いもいましたよ。昨日で二回目です。歩いて
20分です。夜はママさんと従業員 元同じ西鉄観光
バスの経験の8歳下女性で三人で30分ほどお店早めに
おわり話して帰りましたとても、気さくなままです。同じ年
従業員の方も明るいです。 彼氏とのみに置くとはっきりとした人で のんびり話しできた30分でした。
大阪はホンマに。良い街です。怖いところもありますが。 これから昨日入ったところで歌います。お客様も
皆さん明るいです 一緒に歌いましょうねと言ってくれました。
時代の推移、詳しいなあ。
そして、いつも知らない大阪人気質のようなものを此処で知るくちこです。
あの御堂筋が一方通行になったのも万博の直前のことでした。
今は一方通行なんてどこでも見られますが、当時は珍しいことでしたね。
船場には15年近く勤務してました万博の6年前から昭和の55年まででした。
大阪市内も船場も大きく変って行くのを見ていた事になりますかな。
御堂筋の拡張や大阪城天守閣の再建など
大阪が輝いていた時代ですかな。
私が船場に勤務中はまだ大正時代や昭和初期生れの先輩方が働いていましたので
戦前・戦後の船場の逸話などが聞けましたね。