「お変路さん 茅野諏訪行脚」の
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2020.8.29
お変路さん 諏訪茅野行脚 「縄文星座-足の裏」というイベントに行った。
時代が成熟し、あらゆることが出尽くした現代では、
何をやっても型をなぞっているように思えてしまう。
自由な魂は生きる場所を失ってしまい、
虚無感と惰性だけが許された時代のようにも見える。
が、この日のことを
17年ぶりに再会することになる友人ばんぎ氏に知らされてからは、
見えない力に呼び込まれるようにその「場」へと導かれていた。
自然発生的な、無理のない現象のよう。
あの「場」あの「時間」はすでに見えない力により想定されていて、
そこに「居る」ことになることは決まっていたことのように感じられた。
出演メンバー個々の持っている「人の力」により、
そのように触発させられるのかも知れない。
強烈なメンバーである彼らにとってはそれが日常であり、生き方であり、
大切だと感じることをストレートに追い求めているだけなのかも知れない。
舞台が始まる前の時間に、ばんぎ氏と軽く会話をした。
彼は「ここ十数年の間、僕らは死にぞこなっていたのかもしれない」
彼は「ここ十数年の間、僕らは死にぞこなっていたのかもしれない」
と言っていた。
十数年間借りたままだったタロットカードをばんぎ氏に返すことが出来た。
話の最後、舞台の直前に「今日はどんな日?」と彼がカードを1枚ひくと、
そのカードは「Death 死」だった。
が、それはとても前向きでポジティブに思えた。
「コ、コ、コ、コ、」という熱帯雨林のトカゲを思わせる太鼓の音、
大地を思わせるディヂュリドの音でステージが始まった。
音楽に卓越した沢田氏のベースでその「場」は特別な空間になり、
場のコアとなるキョウコ氏が登場することで、集中が高まる。
その場のエネルギーを言葉で説明することは無理だが、
「場の力」それこそが特別で、観客になるというよりも
「体験する」、「場の一部になる」ことを身を持って知る。
その場を共に創造しているようだ。
桑鶴氏の朗読の中に「森にはムダなものがない」というフレーズがあった。
桑鶴氏の朗読の中に「森にはムダなものがない」というフレーズがあった。
意図しているものはなく、全てが自然発生的で、ムダなことは一切なく、
その場と時間が強烈でありながら調和されたエネルギーで充実していた。
意図したわけではなかったのに、なぜかここに居る。
死に向かって歩き続ける私たちは、
「いさぎよく死ねる」ための「浄化」のプロセスを歩んでいるのかも知れない。自然の法はあまりにも大きく深淵だ。そんなことを考えていた。
ここで出会った人たちと別れの挨拶を交わし、
外に出ると、やっと涼しくなった秋の夜空と風が心地よかった。
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