甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

ボツ原稿ふたたび 大阪港へ!

2016年10月22日 08時23分40秒 | わたしと大阪
 正平さん、もしよろしければ、私のふるさとを訪ねていただけないでしょうか? これが私のお願いです。

 私のふるさとは、大阪市大正区というところです。ここへの入り口は北の方に2つあるだけの陸の孤島でした(ものすごく昔は全部海だったかも……)。昔は市電も走っていましたが、今はバスだけが走っています。橋はいくつかできましたが、相変わらずの陸の孤島で、今ではそれも1つの味かなと思います。

 というわけで、今も7つの渡船が区の回りで動いていて、外部との行き来に使われています。この大正区には30歳まで住んでいました。そして何と15歳まで自転車には乗れませんでした。高校に入る時に家族みんなに稽古をしてもらって、どうにか乗れるようになったら、今度は調子に乗って高校まで自転車通学までするようになりました。高校は隣の港区にありました。

 時々、練習のために甚兵衛(じんべえ)渡しを使って港区へ行き、まだ築港線やら貨物の駅やらがあったのを横目に見て、どんどん自転車をこいで大阪港まで行くことがありました。



 当時の大阪港は完全に大阪の西の端っこで、ここから先に陸地はありませんでした。太陽はそのまま海に沈んでいきますし、釣りをする人々と港湾関係者しかいない、西の果てという感じでした。港湾関係の建物、港を監視する建物などが立つ、大阪の海に突き出た最前線の基地みたいなところでした。

 ここまでたどりついたら、もう後戻りするしかないので、引き返すわけですが、「ああ、こんなさいはてまで自転車で来てしまった」とはるばる来た感じがいっぱいになったものでした。お隣の区なのに遠く離れたところではありました。

 今の大阪港は、北からも南からも覆い被さるように埋め立て地に包まれてしまって、あまりさい果て感はないかもしれません。でも、日曜の度に渡し船に乗って出かけた大正区から港区への旅をしてくださったら、とてもしあわせです。

 大阪港へのあこがれは、小学校のころに大正区のど真ん中にゴミなどを積み上げて作った昭和山というのがあって、いつもそこから西に沈む太陽を見ていて、ああ、あの港大橋の向こうに太陽は沈んでいくんだ。いつか大きくなったら、あの向こうの場所から沈む太陽を見てみようと思ったのがきっかけでした。

 大正区から渡し船に乗って、大阪港の先端まで走ってください。どうぞ、よろしくお願いします。




 久しぶりに原稿を見てみましたが、父のことを書いたつもりでいましたが、自分の思い入れしか書いてなかった。

 やはり、私という人間は、他人に対して冷たいんですね。それが文章にも出ている。

 そういう独善・ひとりよがりが臭って、採用してくれなかったのかもしれません。

 もう私の思い出の地はないです。これから少しずつ新たな思い出の地を見つける努力をしなくちゃいけません。過去にとらわれていてはいけない。新しい未来へつづく世界を切り開いていかなくては!

 火野正平さんの「こころ旅」、来シーズンもあるでしょうか。あるとしても、大変だなあと思います。しんどいと思います。つづけて欲しいけど、申し訳なくて……。



★ 今年も、正平さんは自転車旅をされるそうです。原点回帰で日本海を北上するんですね。私も、いつかそういう旅してみたいなあ。(2017.1.22)


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