中3の時に、岩波文庫で「古今和歌集」を買いました。★2つだから、百円だったのかな。今思うと安いですね。なのに、ものすごく敷居が高かった。やっとの思いで買った本でした。
だから、今も大事に文庫カバーをつけて、時々思い出した頃に取り出して読もうとします。
でも、すぐに挫折します。とはいうものの、私みたいな歌のできない人間でも、心に引っかかっている作品があります。もう何十年も気に入ってはいるんですが、やはり今の時期に、しみじみしてしまいます。
さ月まつ花橘のかをかけば昔の人の袖のかぞする
こんな歌がありました。何度も何度も思い出します。その度に、私にとって昔の人の袖のかって、なんだろうなあと思うのでした。
もうすぐやってくる梅雨の時期、その前に、暑かったり寒かったりする、何だかよくわからないけど、夏のとっかかりのころ、みかんの花が咲いて、昼間はそんなに匂わないのに、夜になるととても匂いやかで、心くすぐられる、はかない気分になるみたいです。
そういう時に、実際にこの時期に恋したのかどうかはわからないけれど、でも、なんとなく楽しかった淡い気持ちがふとよみがえってきて、なつかしいような、あまずっぱくもほろ苦い、そんな気持ちになるのですよ。
好きな人がそんな匂いがしたというわけではないけれど、心がうずくのです。胸が痛いのです。
と、平安朝のだれかさんがうたったそうです。もう千何百年も前の話です。私は21世紀に生きているのに、いまだに平安朝の人のような気分で、なつみかんの花の匂いを味わっていました。
ものすごく控えめで、近くに来たものにだけひっそり香りを与えてくれる。
夜には、どこかから、風に誘われて匂ってくる。昔そういうところに住んでもいたので、みかんの花は、私の三十代の子育て真っ盛りのころも思い出させてくれる、なつかしい匂いです。
もう子育てはしていなくて、まったく野放しですけど、あのころの夜の散歩が本当に懐かしいし、そのころの自分たちがいとおしい。
もう何十年も過ぎてしまいました。それも「昔の人の袖の香」なのかな。
せっかく「古今集」を開いたので、夏のところを見てみました。もうやたらめったら、ホトトギスが出てきます。
平安初期の人たちは、ホトトギスにとても親しんでいたようです。京都の山々にはたくさんいたのかもしれませんね。
いつのまにさ月きぬらむ足引きの山郭公(ヤマホトトギス)今ぞなくなる
いつの間に夏真っ盛りになったのだろう。ヤマホトトギスが鳴いている。彼らは季節の到来を知っていて、こうして日本にやってきてくれたのか。それを私たちは彼らの鳴き声で感じることだ。さあ、夏の夜を楽しもうではないか。
そんな感じですね。みなさん、ホトトギスさんの姿は見たことはないけれど、鳴き声に刺激されて、夏を感じていたらしい。暑い・しんどい・季節の変わり目だと訴えても、他人は何とも思いません。やはり、えっ、それって何? そう思わせなきゃダメです。
けさきなきいまだ旅なる郭公(ホトトギス)花橘にやどはからなん
今朝やってきて鳴いているホトトギスよ、おまえはずっと旅をしているんだな。みかんの木にでも宿にしてくれないか。そうしたら、ステキな匂いとおまえの鳴き声で夜は至福の時が送れるような気がするから……。
最後の花は、エゴの木の花です。何度も枯れてますけど、不死鳥のようによみがえって咲いています。でも、なかなか大きくなれなくて、いつも根本を虫に食われている木です。私たちがちゃんと手入れをしてあげたらいいのだけれど……。
夏は少しずつ深まり行くのですね。私は夏の生まれのせいか、わりと夏は好きですよ。春も楽しいのだけれど、花粉があるから、耐える季節に変わってしまって、もう三十数年耐え続けていますし、秋はうれしいけど、何だか落ち着かない。冬は何もかもが面倒になってしまうし、やはり好きなのは夏なんだ。
だから、今も大事に文庫カバーをつけて、時々思い出した頃に取り出して読もうとします。
でも、すぐに挫折します。とはいうものの、私みたいな歌のできない人間でも、心に引っかかっている作品があります。もう何十年も気に入ってはいるんですが、やはり今の時期に、しみじみしてしまいます。
さ月まつ花橘のかをかけば昔の人の袖のかぞする
こんな歌がありました。何度も何度も思い出します。その度に、私にとって昔の人の袖のかって、なんだろうなあと思うのでした。
もうすぐやってくる梅雨の時期、その前に、暑かったり寒かったりする、何だかよくわからないけど、夏のとっかかりのころ、みかんの花が咲いて、昼間はそんなに匂わないのに、夜になるととても匂いやかで、心くすぐられる、はかない気分になるみたいです。
そういう時に、実際にこの時期に恋したのかどうかはわからないけれど、でも、なんとなく楽しかった淡い気持ちがふとよみがえってきて、なつかしいような、あまずっぱくもほろ苦い、そんな気持ちになるのですよ。
好きな人がそんな匂いがしたというわけではないけれど、心がうずくのです。胸が痛いのです。
と、平安朝のだれかさんがうたったそうです。もう千何百年も前の話です。私は21世紀に生きているのに、いまだに平安朝の人のような気分で、なつみかんの花の匂いを味わっていました。
ものすごく控えめで、近くに来たものにだけひっそり香りを与えてくれる。
夜には、どこかから、風に誘われて匂ってくる。昔そういうところに住んでもいたので、みかんの花は、私の三十代の子育て真っ盛りのころも思い出させてくれる、なつかしい匂いです。
もう子育てはしていなくて、まったく野放しですけど、あのころの夜の散歩が本当に懐かしいし、そのころの自分たちがいとおしい。
もう何十年も過ぎてしまいました。それも「昔の人の袖の香」なのかな。
せっかく「古今集」を開いたので、夏のところを見てみました。もうやたらめったら、ホトトギスが出てきます。
平安初期の人たちは、ホトトギスにとても親しんでいたようです。京都の山々にはたくさんいたのかもしれませんね。
いつのまにさ月きぬらむ足引きの山郭公(ヤマホトトギス)今ぞなくなる
いつの間に夏真っ盛りになったのだろう。ヤマホトトギスが鳴いている。彼らは季節の到来を知っていて、こうして日本にやってきてくれたのか。それを私たちは彼らの鳴き声で感じることだ。さあ、夏の夜を楽しもうではないか。
そんな感じですね。みなさん、ホトトギスさんの姿は見たことはないけれど、鳴き声に刺激されて、夏を感じていたらしい。暑い・しんどい・季節の変わり目だと訴えても、他人は何とも思いません。やはり、えっ、それって何? そう思わせなきゃダメです。
けさきなきいまだ旅なる郭公(ホトトギス)花橘にやどはからなん
今朝やってきて鳴いているホトトギスよ、おまえはずっと旅をしているんだな。みかんの木にでも宿にしてくれないか。そうしたら、ステキな匂いとおまえの鳴き声で夜は至福の時が送れるような気がするから……。
最後の花は、エゴの木の花です。何度も枯れてますけど、不死鳥のようによみがえって咲いています。でも、なかなか大きくなれなくて、いつも根本を虫に食われている木です。私たちがちゃんと手入れをしてあげたらいいのだけれど……。
夏は少しずつ深まり行くのですね。私は夏の生まれのせいか、わりと夏は好きですよ。春も楽しいのだけれど、花粉があるから、耐える季節に変わってしまって、もう三十数年耐え続けていますし、秋はうれしいけど、何だか落ち着かない。冬は何もかもが面倒になってしまうし、やはり好きなのは夏なんだ。