小学校の頃、林間学校は高野山でした。あまり憶えてはいないけど、泊まった宿坊や、奥の院の雰囲気、憶えていますね。今訪ねてみても、あまり変わらないと思うけど、そこに年を取った私がいるだけで、空気も町も変わりはなくて、変わったのは自分だけだなんて、高野山はきっとそんな感じにさせてくれるところだと思います。
だから、高野山には行きません。大人になって、2回ほど行ったけど、ごまどうふが恐ろしいほどおいしいのと、宿坊のカレーがびっくりするくらいクラッシックなのと、それくらいで、たぶん行かないと思います。
いつか、奥さんと一緒に宿坊に泊まろうかな。そして、朝のお勤めに参加するなんて、そんなことができたらしあわせですね。なかなかチャンスは来ないけど、いつかふたたび行ってみたい気はします。何を求めて行くのかな。やはり、仏教に向き合うためでしょうね。
小6の秋の修学旅行は、大阪の子だったので、伊勢神宮に行きました。一泊だけど、ものすごい熱狂とともに三重県に侵入したのでした。確か団体列車で、上本町からノンストップの青空号だったのかなあ。
あんなにワクワクした旅行先に、今はひまつぶしだったり、お餅を買いに出かけたり、そんなありふれた動機でしか行きません。あまりに近いので、そんなに感動もしなくなってしまいました。何しろ生活圏ですから。
ごくたまに、仕事で二見の方へ出かけたら、少しだけ小6のころを無理矢理思いだそうと努力はしてみるのですが、今のさびれ方がものすごくて、あの熱狂はどこへ行ったのだという気持ちだけで、もう心は閉ざされてしまいます。
夫婦岩から海岸線の堤防をずっとたどって宿舎まで歩いていきましたっけ。昼間は雨がふっていたのに、夕方は雨が上がってたかもしれない。そして、夜には赤福餅を予約できるということで、みんなで注文書を回しましたっけ。あんなにみんなで必死になって買った赤福餅も、いろいろあって、味も変わってしまいました。残念なことです。
そりゃ、ずっと同じ所なんてないですね。企業なんだから、もうけを求めて時代に合わせて変わっていくもんなんでしょう。
そんな秋の伊勢神宮から、あんなにイヤでたまらなかった中学生になります(丸坊主にするのがとても怖かったんです……)。それが、どうにかボウズにはならなくてよかったので、ホッとして、中学生になった。
中学生になるということは、ボウズの恐怖があったんでした。神戸はそれからもずっと強制ボウズでしたが、私が中学生になる前に大阪は強制ボウズがなくなったんだった。
さすが、大阪は都会だぜ、と思ったかどうか、それは忘れたけれど、とにかく気づいたら中学生で、入学してすぐに一泊移住なるイベントがありました。
これはワクワクもないし、電車でルンルンというのもなくて、10あるクラスの2つずつが大阪市が六甲山のふところに作った施設にバスか何かで行ったのだと思われます。
そして、みんなでの食事と夜のミーティング、ここで何か話し合いとか、うたを歌うとか、70年代的な教育活動があった。たぶんこのころ、となりのクラスの、小学校がちがう、ミキちゃんという子に心を奪われていたので、その子と一緒になる夜のミーティングみたいなのは楽しみだったのかもしれません。
何をつまらない昔話をしているんでしょうね。そうだ。このミキちゃんという子は、常盤貴子さんみたいな目線の流し方をする子で、その目線が気になったんでしたっけか……。でも、全く相手にもされず、遠い存在としていつのまにかミキちゃんに対する興味もなくしていったんですね。
ああ、私は小さい頃から移り気だったんだ。改めて感じますね。
それで、やっとカーペンターズのことを書けますね。
小学校までは、全くコテコテの歌謡曲ファンで、天地真理さんとか、小柳ルミ子さんとか、そういう歌謡曲の中のアイドルが好きだった私。
中学に入り、突然、中学生は深夜放送を聞くものだ、という当時の流行に合わせて、ABC(大阪の朝日放送)の「ヤングリクエスト」を聞くようになったのでした。家ではイヤホンをつけて寝ながら聞いていました。でも、1時間も聞いていたらすぐに寝てしまうんでした。
きっと洋楽にめざめたのです。聞くのはビートルズではなく、マッカートニーさんでもない。ミッシェル・ポルナレフというフランスの歌手もいたけど、そんなに好きじゃなくて、好きになったのはカーペンターズだった。
当時の中学生のかなりの部分が、カーペンターズを支持していたように思う。
私たちは、先生もやってこないし、二段ベッドにそれぞれ寝るところは決めたけれど、暗い中でお話しするでもなく、ラジオを聞いていた。時々はおしゃべりもしたのかな。
私などはワルノリして、「そうだ。山の上から見えるまちの灯りをスケッチしよう」と、2枚くらいわけのわからない絵を描きました。何かエンピツでモゾモゾ描きましたよ。どこかに残っているかもしれないけど、つまらないまっくろけの絵を描きました。
ラジオから聞こえてきた音楽は、「ランララララ、ランララララ、ランランララララー」カーペンターズの「シング」でした。
ああ、私は六甲の山の上にいる。なかなか眠れていない。まっくらなのに絵を描こうなんて、バカなことをしている。夜は更けている。友だちともおしゃべりはした。でも、深まりきれていない。でも、なんだか生きているのを感じている。
カーペンターズのボーカルの人も、何だか励ましてくれているみたい。
というような気持ちになっていましたっけ。
あれから、四十数年。中学の頃、そこから元気になっていた23時には、コロッと寝てしまうオッチャンになっています。時間というのは、残酷なくらい早く過ぎていくんですね。
仕方ありません。せいぜい毎日眠気と戦って、いい仕事をしなくては! そうしたらおいしいお酒でも飲めるかもしれない。それは中学の頃からは考えられないすばらしいことですもんね。ありがたいと感謝しています。
だから、高野山には行きません。大人になって、2回ほど行ったけど、ごまどうふが恐ろしいほどおいしいのと、宿坊のカレーがびっくりするくらいクラッシックなのと、それくらいで、たぶん行かないと思います。
いつか、奥さんと一緒に宿坊に泊まろうかな。そして、朝のお勤めに参加するなんて、そんなことができたらしあわせですね。なかなかチャンスは来ないけど、いつかふたたび行ってみたい気はします。何を求めて行くのかな。やはり、仏教に向き合うためでしょうね。
小6の秋の修学旅行は、大阪の子だったので、伊勢神宮に行きました。一泊だけど、ものすごい熱狂とともに三重県に侵入したのでした。確か団体列車で、上本町からノンストップの青空号だったのかなあ。
あんなにワクワクした旅行先に、今はひまつぶしだったり、お餅を買いに出かけたり、そんなありふれた動機でしか行きません。あまりに近いので、そんなに感動もしなくなってしまいました。何しろ生活圏ですから。
ごくたまに、仕事で二見の方へ出かけたら、少しだけ小6のころを無理矢理思いだそうと努力はしてみるのですが、今のさびれ方がものすごくて、あの熱狂はどこへ行ったのだという気持ちだけで、もう心は閉ざされてしまいます。
夫婦岩から海岸線の堤防をずっとたどって宿舎まで歩いていきましたっけ。昼間は雨がふっていたのに、夕方は雨が上がってたかもしれない。そして、夜には赤福餅を予約できるということで、みんなで注文書を回しましたっけ。あんなにみんなで必死になって買った赤福餅も、いろいろあって、味も変わってしまいました。残念なことです。
そりゃ、ずっと同じ所なんてないですね。企業なんだから、もうけを求めて時代に合わせて変わっていくもんなんでしょう。
そんな秋の伊勢神宮から、あんなにイヤでたまらなかった中学生になります(丸坊主にするのがとても怖かったんです……)。それが、どうにかボウズにはならなくてよかったので、ホッとして、中学生になった。
中学生になるということは、ボウズの恐怖があったんでした。神戸はそれからもずっと強制ボウズでしたが、私が中学生になる前に大阪は強制ボウズがなくなったんだった。
さすが、大阪は都会だぜ、と思ったかどうか、それは忘れたけれど、とにかく気づいたら中学生で、入学してすぐに一泊移住なるイベントがありました。
これはワクワクもないし、電車でルンルンというのもなくて、10あるクラスの2つずつが大阪市が六甲山のふところに作った施設にバスか何かで行ったのだと思われます。
そして、みんなでの食事と夜のミーティング、ここで何か話し合いとか、うたを歌うとか、70年代的な教育活動があった。たぶんこのころ、となりのクラスの、小学校がちがう、ミキちゃんという子に心を奪われていたので、その子と一緒になる夜のミーティングみたいなのは楽しみだったのかもしれません。
何をつまらない昔話をしているんでしょうね。そうだ。このミキちゃんという子は、常盤貴子さんみたいな目線の流し方をする子で、その目線が気になったんでしたっけか……。でも、全く相手にもされず、遠い存在としていつのまにかミキちゃんに対する興味もなくしていったんですね。
ああ、私は小さい頃から移り気だったんだ。改めて感じますね。
それで、やっとカーペンターズのことを書けますね。
小学校までは、全くコテコテの歌謡曲ファンで、天地真理さんとか、小柳ルミ子さんとか、そういう歌謡曲の中のアイドルが好きだった私。
中学に入り、突然、中学生は深夜放送を聞くものだ、という当時の流行に合わせて、ABC(大阪の朝日放送)の「ヤングリクエスト」を聞くようになったのでした。家ではイヤホンをつけて寝ながら聞いていました。でも、1時間も聞いていたらすぐに寝てしまうんでした。
きっと洋楽にめざめたのです。聞くのはビートルズではなく、マッカートニーさんでもない。ミッシェル・ポルナレフというフランスの歌手もいたけど、そんなに好きじゃなくて、好きになったのはカーペンターズだった。
当時の中学生のかなりの部分が、カーペンターズを支持していたように思う。
私たちは、先生もやってこないし、二段ベッドにそれぞれ寝るところは決めたけれど、暗い中でお話しするでもなく、ラジオを聞いていた。時々はおしゃべりもしたのかな。
私などはワルノリして、「そうだ。山の上から見えるまちの灯りをスケッチしよう」と、2枚くらいわけのわからない絵を描きました。何かエンピツでモゾモゾ描きましたよ。どこかに残っているかもしれないけど、つまらないまっくろけの絵を描きました。
ラジオから聞こえてきた音楽は、「ランララララ、ランララララ、ランランララララー」カーペンターズの「シング」でした。
ああ、私は六甲の山の上にいる。なかなか眠れていない。まっくらなのに絵を描こうなんて、バカなことをしている。夜は更けている。友だちともおしゃべりはした。でも、深まりきれていない。でも、なんだか生きているのを感じている。
カーペンターズのボーカルの人も、何だか励ましてくれているみたい。
というような気持ちになっていましたっけ。
あれから、四十数年。中学の頃、そこから元気になっていた23時には、コロッと寝てしまうオッチャンになっています。時間というのは、残酷なくらい早く過ぎていくんですね。
仕方ありません。せいぜい毎日眠気と戦って、いい仕事をしなくては! そうしたらおいしいお酒でも飲めるかもしれない。それは中学の頃からは考えられないすばらしいことですもんね。ありがたいと感謝しています。