(手前が如来堂で、奥の建物が御影堂です。御影堂には親鸞さんのご遺骨がおまつりされているということでした。まさに仏舎利で、お釈迦様並みのありがたさでした。2つの建物共に、三重県で最初の国宝建造物でした。)
津市の一身田(いしんでん)にある高田本山専修寺(せんじゅじ)で開かれているお七夜に参加してみました。
といっても、駅から歩いてすぐのお寺にお参りして、露店を眺め、すぐに電車で帰って来ただけなので、参加といえるかどうか少し怪しいところです。
それにしても、おまつりというのか、縁日というのか、家族連れがたくさんで、小さい子どもたちが家族に連れられて来ているようでした。私はコロナが怖くて、ビクビクしながら歩いていて、人だかりや行列があったらそれらを避けてグルリとまわって来ただけでした。
まあ、コロナの時代であってみれば、そういうことも仕方がないのかもしれません。そして、コロナの時代でなかったら、たぶん、もっと遠くに目が向いてたから、近所でおまつりみたいなのがあるよと言われても、行かなかったでしようね。いい加減なものです。
そもそもお七夜って何なんでしょう。もらってきたパンフによりますと、
「真宗のお寺においては、本山でも一般寺院でも報恩講(これが正式名称のようです)が最も重要な法会です。報恩講式の順読を中心とした整った勤行形式、作法、また、報恩講式の拝読の複雑かつ独特な節回しも固有のものになっています。」
ということで、1月9日から16日まで、全国各地のお寺の住職さんがお説教をされるようです。そのスケジュールも決まっていて、ライブ中継もされるようです。すべてを聞かせてもらったら、私なんかの宗教観も少しはましになるかもしれないのに、お説教嫌いで、お話というと昼寝で対応することしかできない私は、罰当たりで仏のご加護も得られない、救いようのない人間なんです。罰当たりものです!
それにしても、どうして三重県で浄土真宗なんだよ。どうして本山を唱えることができるんだろう。浄土真宗は、京都か石川県じゃないのだろうか。
ずっとわからないままに、三十何年三重県に住んでるけど、最近少しだけわかってきたことがあるんです。
それを書いてみます。今回はいろんな資料を見ながら書かなくてはと思っています。
もらってきたパンフには、「親鸞聖人(しょうにん)のご生涯」というのが載っています。
承安三年(1173)5月21日に藤原氏の流れをくむ、日野有範(ひのありのり)の子として生まれました。
やがて比叡山に修行に行きます。
29歳になられた聖人は、救いの道を求めて聖徳太子建立の六角堂へ参籠されます。そして、95日目の暁に観音菩薩より夢のお告げを得たのです。
迷いの中にあった聖人は、観音菩薩のお告げに背中を押されるように、吉水の法然上人のもとへ赴きました。
法然さんとの出会いが親鸞さんのスケールアップにつながったということなんですね。それは何となく知っていました。
念仏を称えれば往生がかなうという教えは革新的だったんですね。すでに鎌倉の世になっていた。でも、京都には後鳥羽上皇が権力をふるっていたわけで、後鳥羽上皇のご気分を害したら、もう京都にはいられないんですが、親鸞さんの伝える力がすごくて、上皇のお気に入りの女官たちが次から次と念仏集会(ねんぶつしゅうえ)に参加して、髪をおろす事件が起きて、親鸞さんも、師匠の法然さんも流罪になったんでした。
これも聞いたことはありました。これを「承元の法難」というそうで、これは知らなかった。
さあ、親鸞さんは佐渡に流されてどうなるんでしたっけね……。