フジコ先生は、若い先生でした。1・2年生の時の担任もフジコ先生でしたが、こちらは大ベテランで、後々までその功績を学校で語られる大先生でした。私は、こちらの先生の印象が強いせいか、3年生の時の若いフジコ先生のことは、何も憶えていないです。
春の遠足は、宝塚のファミリーランド、フジコ先生は無表情の顔で、あまり楽しそうにない、というのか、仕事の顔をしています。秋の遠足は、セーターを着て、口を少し開いて、子どもたちに何か声を掛けている感じです。こっちの方がフジコ先生の印象に近いです。
そんなに怒らない、やさしい感じの、吉永小百合系のくぐもったお声の、日本女性という印象の先生です。後年この先生をめぐって、変なうわさが立ってしまって、この先生と男の先生は転勤させられてしまい、母たちのPTAのみなさんは、「それ見たことか」とかなんとか言ってたようですが、私は何だかさびしい気持ちになったのもたしかでした。
秋の当麻寺でした。本堂をバックにクラス写真を撮っていますが、まわりの松がこんもりとしていて、実際に私が今回見た感じとはだいぶ違います。今も境内に木々はありますが、いまはどれも小さく管理されている感じ、というのか本堂あたりはほとんど木がない印象です。
もう一度、春か夏に行ってみるしかないですね。
東門をくぐると、日本最古の国宝・梵鐘があると書いてあります。でも、白鳳時代の梵鐘は鐘楼のなかに隠されています。当たり前のことですが、のっけからザンネンな感じです。
当麻寺は、昔は南の竹内街道に開けていたので、南北の軸があったということですが、今は東側の近鉄と国道のバイパスが頼りで、東西の軸が大事になっています。
二上山がすぐ後ろに控えているものと思っていたら、二上山はもう少し北の方にあって、これも当麻寺の軸の延長にはありません。時々チラッと見える程度で、二上山のふもとに作ったというわけでもなさそうです。
だれが作ったのか、何のお寺なのかも知らないで、とりあえず中将姫という方がおられて、その方がハスの糸で曼荼羅をお作りになって、その曼荼羅が国宝で、それを拝みにたくさんの人々が来るというお寺のようです。
でも、中将姫さまは実在の方でないとか、ハス糸ではなくて、ふつうの刺繍でできてるという話もありますし、じっと曼荼羅さんも見せてもらいましたが、凡人の私には、よく見えなくて、あまり有り難みは感じられませんでした。
これが曼荼羅堂(本堂)で、東西の軸の突き当たりにあります。40年くらい前、私の小学校では、これをバックに記念写真を撮りました。その時は、このお堂のまわりでお弁当を広げ、回廊をクルクルしても叱られなかった。
子ども心にも、何だか何にもないお寺だな。大仏とか、シカとか、おみやげ屋とか、もっと派手なものがないのかなという印象でしたが、今もそのさびれた感はたっぷりあります。昔のまんまです。
東西の軸を外れると、いろんな塔頭があって、お茶がいただけたり、お庭を鑑賞できたり、東塔の真下に来られたり、いろんな特典があるようですが、今回はそれらはすべてパスしました。
私はただの野次馬なので、それらしい風景が撮れたらいいかなという感じです。
お寺の北側に、たぶん昔はお寺の境内だと思われますが、今は民家に取り囲まれている薬師堂を見つけました。薬師如来さんがおられるのかもしれませんが、閉ざされたままです。もしまわりで火事でも起こったら、薬師さんもピンチです。
曼荼羅堂のあとに、少し東へもどって、講堂・金堂を拝観しました。講堂は、阿弥陀如来さんを中心とする仏像世界です。係の白いウインドブレーカーのお姉さんが、「金堂」も開けてくださいました。こちらは弥勒菩薩さんと四天王です。増長天と持国天の二像は修理中ということで、少しさびしい感じでした。
弥勒菩薩さまも、写真としてはこのように撮れるようですが、見た感じは、こんなにカラフルではなくて、暗いお堂の中のモノクロの仏様という感じでした。もっとふくよかな、もっとのんびりした印象を持ったのですが、ネット上で調べたら、この仏様でした。
まあ、その時に、私なりにお願いはしたわけですから、ネットはネット、わたしはわたし。とにかくお参りして有り難い感じでした。弥勒菩薩さまは南に向かっておられます。そうでした。当麻寺は、南に開けていたお寺だったのです。
この金堂の前にある、これまた日本最古の石灯籠も、やはり南から来る参拝客をお迎えしていたようです。これは後になって気づいたことでした。
1 寒牡丹 老年母子の寺詣り
2 寒牡丹 弁当広げる場所もなし
3 寒牡丹 「ようお参り」とおネエさん
うまく切り取れてないですね。もう2週間くらい過ぎたからですね。続きは夜でも書きます!
春の遠足は、宝塚のファミリーランド、フジコ先生は無表情の顔で、あまり楽しそうにない、というのか、仕事の顔をしています。秋の遠足は、セーターを着て、口を少し開いて、子どもたちに何か声を掛けている感じです。こっちの方がフジコ先生の印象に近いです。
そんなに怒らない、やさしい感じの、吉永小百合系のくぐもったお声の、日本女性という印象の先生です。後年この先生をめぐって、変なうわさが立ってしまって、この先生と男の先生は転勤させられてしまい、母たちのPTAのみなさんは、「それ見たことか」とかなんとか言ってたようですが、私は何だかさびしい気持ちになったのもたしかでした。
秋の当麻寺でした。本堂をバックにクラス写真を撮っていますが、まわりの松がこんもりとしていて、実際に私が今回見た感じとはだいぶ違います。今も境内に木々はありますが、いまはどれも小さく管理されている感じ、というのか本堂あたりはほとんど木がない印象です。
もう一度、春か夏に行ってみるしかないですね。
東門をくぐると、日本最古の国宝・梵鐘があると書いてあります。でも、白鳳時代の梵鐘は鐘楼のなかに隠されています。当たり前のことですが、のっけからザンネンな感じです。
当麻寺は、昔は南の竹内街道に開けていたので、南北の軸があったということですが、今は東側の近鉄と国道のバイパスが頼りで、東西の軸が大事になっています。
二上山がすぐ後ろに控えているものと思っていたら、二上山はもう少し北の方にあって、これも当麻寺の軸の延長にはありません。時々チラッと見える程度で、二上山のふもとに作ったというわけでもなさそうです。
だれが作ったのか、何のお寺なのかも知らないで、とりあえず中将姫という方がおられて、その方がハスの糸で曼荼羅をお作りになって、その曼荼羅が国宝で、それを拝みにたくさんの人々が来るというお寺のようです。
でも、中将姫さまは実在の方でないとか、ハス糸ではなくて、ふつうの刺繍でできてるという話もありますし、じっと曼荼羅さんも見せてもらいましたが、凡人の私には、よく見えなくて、あまり有り難みは感じられませんでした。
これが曼荼羅堂(本堂)で、東西の軸の突き当たりにあります。40年くらい前、私の小学校では、これをバックに記念写真を撮りました。その時は、このお堂のまわりでお弁当を広げ、回廊をクルクルしても叱られなかった。
子ども心にも、何だか何にもないお寺だな。大仏とか、シカとか、おみやげ屋とか、もっと派手なものがないのかなという印象でしたが、今もそのさびれた感はたっぷりあります。昔のまんまです。
東西の軸を外れると、いろんな塔頭があって、お茶がいただけたり、お庭を鑑賞できたり、東塔の真下に来られたり、いろんな特典があるようですが、今回はそれらはすべてパスしました。
私はただの野次馬なので、それらしい風景が撮れたらいいかなという感じです。
お寺の北側に、たぶん昔はお寺の境内だと思われますが、今は民家に取り囲まれている薬師堂を見つけました。薬師如来さんがおられるのかもしれませんが、閉ざされたままです。もしまわりで火事でも起こったら、薬師さんもピンチです。
曼荼羅堂のあとに、少し東へもどって、講堂・金堂を拝観しました。講堂は、阿弥陀如来さんを中心とする仏像世界です。係の白いウインドブレーカーのお姉さんが、「金堂」も開けてくださいました。こちらは弥勒菩薩さんと四天王です。増長天と持国天の二像は修理中ということで、少しさびしい感じでした。
弥勒菩薩さまも、写真としてはこのように撮れるようですが、見た感じは、こんなにカラフルではなくて、暗いお堂の中のモノクロの仏様という感じでした。もっとふくよかな、もっとのんびりした印象を持ったのですが、ネット上で調べたら、この仏様でした。
まあ、その時に、私なりにお願いはしたわけですから、ネットはネット、わたしはわたし。とにかくお参りして有り難い感じでした。弥勒菩薩さまは南に向かっておられます。そうでした。当麻寺は、南に開けていたお寺だったのです。
この金堂の前にある、これまた日本最古の石灯籠も、やはり南から来る参拝客をお迎えしていたようです。これは後になって気づいたことでした。
1 寒牡丹 老年母子の寺詣り
2 寒牡丹 弁当広げる場所もなし
3 寒牡丹 「ようお参り」とおネエさん
うまく切り取れてないですね。もう2週間くらい過ぎたからですね。続きは夜でも書きます!