
46【道に落ちたるを( )わず】……世の中がうまく治まって、国法がしっかり守られていることのたとえ。 *空欄に適切な漢字一字を考えてください。落ちているのを何するのがダメということなんでしょう?
「論語 公冶長編」に次のようなことばがあります。
子、子産(しさん)を謂(い)う。君子の道四つあり。
その行うや恭(きょう)、その上(かみ)に事(つか)うるや敬(けい)、
その民を養うや恵(けい)、その民を使うや義。
子産(しさん)という人は、鄭(てい)という国の名宰相だったそうです。あざ名が子産で、名前は公孫僑(こうそんきょう)です。孔子さんが31才の時に亡くなっています。
その人をどのように評価しているのかというと、「自分自身の心がけとして人を敬い謙虚でいようとした人だった。上の人にお仕えする時には慎み深い態度を忘れなかった。民を養い育てることにおいては、自分の国の人民に情け深くすることを考えた。民を使役するには正しいやり方で治めた。」という評価をしています。
孔子さんの政治家評はところどころに出ていて、今の私たちには、いくら教えていただいても、その人たちのことを知らないので、イマイチ理解できないところがあります。
でも、高い評価なのは確かで、いくつかのおことばやその他の本などで少しずつその人のイメージを作っていくしかありません。同時代にその人を知ることはできないのだから、過去の私たちは、いろんなことばや資料で、昔の人を知り、今を生きる自分の材料とするしかありません。

とにかく、すごい方なのはわかりました。その方が何をしたというのでしょう? それを知らなくちゃいけません。
春秋時代の鄭(てい)の昭公は、お気に入りの徐摯(じょし)を宰相に任じたが、その成果が全く挙がらなかった。国内では、上下の争いが絶えず、親子までいがみ合うという始末であった。
そこで改めて子産を任じたところ、1年経つと、子供が悪ふざけしなくなる。老人は重い荷物を持たず、未成年者が畑に出されことも無くなる。
2年経つと、市場から掛値というものが姿を消す。
3年経つと、夜になっても、戸締りの必要が無くなり、道の落とし物でさえ私物化する者は無くなる。
4年後には、農民は鍬や鋤を畑に置いたまま、家に帰るようになる。
5年後には、戦いは絶えてなく、服喪の期間は、命令を出さずとも守られるようになった。
後に 子産が亡くなった時、民は口々に嘆き悲しんだ。《史記 循吏(じゅんり)列伝》ということですから、立派な政治家だったというのはわかりました。

でも、まだイメージが湧いてきませんね。
「論語」には、子産さんはあと2回でてくるみたいで、外交文書を作成するとき、4人の家老がいて、草稿を作る人がいて、検討する人がいて、添削する人がいて、子産さんは文書の「潤色」をしたのだよと、孔子さんはおっしゃいます。
「潤色」とは、すべてに配慮して、しかも思いやりを込められる、トータルで物事を判断できる、スケールの大きい人ということなんでしょうか。ただ文書作成が上手なお役人ということではないような気がします。
配慮のできる人であった。文書って、本来はあまり内容はないもので、とりあえずやりとりをしながら、お互いのつながりを確認し、言っておくべきことは言っておくというものです。言いたいことだけを書いておくのは味気ないもので、そこにプラスアルファのささやかな配慮が、お互いのつながりを深めることを促進する。
子産さんはそれができる人だったそうです。孔子さんは子産さんが関わった文書を見たことがあったから、そうおっしゃってるんですよね。
論語のつづきでは、ある人に子産さんってどんな人ですかと質問されて、一言で「恵人(けいじん)なり」と答えています。「恵人」とは、めぐみ深い人、配慮の行き届く人、いつもまわりの人のことに気がつく人ということでしょうか。

孔子さんの人物評価を見ていて、つい自分のことを考えさせられます。
私は、「恵人」にはなれていません。自分のことしか考えていないとんでもない野郎です。その大事なはずの自分のことでさえ、いい加減で、その場その場の気分に流され、自分にとって本当に大事なことを自分にさせてあげられていない。
自分をうまくコントロールするには、自分の使い方を理解して、どのようにすれば自分がうまく動かせるかを知らなくてはいけないのに、まわりに流されてしまう。
孔子先生に、こんな私はどうしたらいいでしょう? と質問してみたいです。
お答えは、「あなたは勉強が足りないから、とりあえず勉強をしなさい。そして、生活スタイルをちゃんと守り、身辺の整理を常にして、こぎれいな姿で過ごしなさい。だらしないのはダメです。」でしょうか。
これは孔子先生のおことばではなくて、ただの私の心の声でした。いつも反省することばかりです。孔子先生なら、もっと将来を見通したことを言ってくださると思うんですが、私にはそれができないです。目先のことをしっかりやらないとと思うばかりです……。

★答え 46・拾
★ 関西人の私は、「ひろう」ということばが使えません。「ひらう」に頭の中で切り替えて、「拾う」を理解することができます。この「拾う」ということばは、意外と関西人には難しいことばのような気がします。
みんなが、「みちでものひろた」「歩いてて、ひらったんやで」と言ってくれたら、私の関西人心は言ってますが、世の中の人は「みちでひろった」と言うんでしょうね。イヤになっちゃう。
「論語 公冶長編」に次のようなことばがあります。
子、子産(しさん)を謂(い)う。君子の道四つあり。
その行うや恭(きょう)、その上(かみ)に事(つか)うるや敬(けい)、
その民を養うや恵(けい)、その民を使うや義。
子産(しさん)という人は、鄭(てい)という国の名宰相だったそうです。あざ名が子産で、名前は公孫僑(こうそんきょう)です。孔子さんが31才の時に亡くなっています。
その人をどのように評価しているのかというと、「自分自身の心がけとして人を敬い謙虚でいようとした人だった。上の人にお仕えする時には慎み深い態度を忘れなかった。民を養い育てることにおいては、自分の国の人民に情け深くすることを考えた。民を使役するには正しいやり方で治めた。」という評価をしています。
孔子さんの政治家評はところどころに出ていて、今の私たちには、いくら教えていただいても、その人たちのことを知らないので、イマイチ理解できないところがあります。
でも、高い評価なのは確かで、いくつかのおことばやその他の本などで少しずつその人のイメージを作っていくしかありません。同時代にその人を知ることはできないのだから、過去の私たちは、いろんなことばや資料で、昔の人を知り、今を生きる自分の材料とするしかありません。

とにかく、すごい方なのはわかりました。その方が何をしたというのでしょう? それを知らなくちゃいけません。
春秋時代の鄭(てい)の昭公は、お気に入りの徐摯(じょし)を宰相に任じたが、その成果が全く挙がらなかった。国内では、上下の争いが絶えず、親子までいがみ合うという始末であった。
そこで改めて子産を任じたところ、1年経つと、子供が悪ふざけしなくなる。老人は重い荷物を持たず、未成年者が畑に出されことも無くなる。
2年経つと、市場から掛値というものが姿を消す。
3年経つと、夜になっても、戸締りの必要が無くなり、道の落とし物でさえ私物化する者は無くなる。
4年後には、農民は鍬や鋤を畑に置いたまま、家に帰るようになる。
5年後には、戦いは絶えてなく、服喪の期間は、命令を出さずとも守られるようになった。
後に 子産が亡くなった時、民は口々に嘆き悲しんだ。《史記 循吏(じゅんり)列伝》ということですから、立派な政治家だったというのはわかりました。

でも、まだイメージが湧いてきませんね。
「論語」には、子産さんはあと2回でてくるみたいで、外交文書を作成するとき、4人の家老がいて、草稿を作る人がいて、検討する人がいて、添削する人がいて、子産さんは文書の「潤色」をしたのだよと、孔子さんはおっしゃいます。
「潤色」とは、すべてに配慮して、しかも思いやりを込められる、トータルで物事を判断できる、スケールの大きい人ということなんでしょうか。ただ文書作成が上手なお役人ということではないような気がします。
配慮のできる人であった。文書って、本来はあまり内容はないもので、とりあえずやりとりをしながら、お互いのつながりを確認し、言っておくべきことは言っておくというものです。言いたいことだけを書いておくのは味気ないもので、そこにプラスアルファのささやかな配慮が、お互いのつながりを深めることを促進する。
子産さんはそれができる人だったそうです。孔子さんは子産さんが関わった文書を見たことがあったから、そうおっしゃってるんですよね。
論語のつづきでは、ある人に子産さんってどんな人ですかと質問されて、一言で「恵人(けいじん)なり」と答えています。「恵人」とは、めぐみ深い人、配慮の行き届く人、いつもまわりの人のことに気がつく人ということでしょうか。

孔子さんの人物評価を見ていて、つい自分のことを考えさせられます。
私は、「恵人」にはなれていません。自分のことしか考えていないとんでもない野郎です。その大事なはずの自分のことでさえ、いい加減で、その場その場の気分に流され、自分にとって本当に大事なことを自分にさせてあげられていない。
自分をうまくコントロールするには、自分の使い方を理解して、どのようにすれば自分がうまく動かせるかを知らなくてはいけないのに、まわりに流されてしまう。
孔子先生に、こんな私はどうしたらいいでしょう? と質問してみたいです。
お答えは、「あなたは勉強が足りないから、とりあえず勉強をしなさい。そして、生活スタイルをちゃんと守り、身辺の整理を常にして、こぎれいな姿で過ごしなさい。だらしないのはダメです。」でしょうか。
これは孔子先生のおことばではなくて、ただの私の心の声でした。いつも反省することばかりです。孔子先生なら、もっと将来を見通したことを言ってくださると思うんですが、私にはそれができないです。目先のことをしっかりやらないとと思うばかりです……。

★答え 46・拾
★ 関西人の私は、「ひろう」ということばが使えません。「ひらう」に頭の中で切り替えて、「拾う」を理解することができます。この「拾う」ということばは、意外と関西人には難しいことばのような気がします。
みんなが、「みちでものひろた」「歩いてて、ひらったんやで」と言ってくれたら、私の関西人心は言ってますが、世の中の人は「みちでひろった」と言うんでしょうね。イヤになっちゃう。