昔、高校野球の帝京高校の芝草投手というピッチャーがいました。プロではファイターズに入ったんでしたっけ? お名前は、「宇宙」と書いて「ひろし」と読むんでしたね。わりと衝撃的でした。こんなことができるんだ、と驚いていたはずです。
当て字としては面白いけど、世の中はこんな風に自由に字を当て、好きなように読ませてよくなったのかなと意識改革を迫られたようでした。何年くらい前の人だったかな? かなり昔ですね。それから名前の世界はものすごく変わっていきました。もう戦国の時代がきて、もう混沌になっているんじゃないかな。
これから、スタンダードの時代に戻ったり、百花繚乱の時代が来たり、いろんな変遷を経て、どうなっていくものなのか。このままで行くと、他人のお名前はフリガナなしでは読めなくなるでしょう。
芝草選手たちよりかなり年上の私(たちよりもっと上の人たちも)は、自由に名前を付けたいのに、文字の制約があるし、あまりに好き勝手な名前と文字では、本人たちはいいけど、何も知らない人には伝わらないし、親のワガママが見えるようで、何だかイヤだなと思ってて、制約の中で工夫して名前つけをしていましたよ。
昔、うちの父が名付け親になってと言われて、考えに考えた名前が、「陛一」で「のりかず」と読むんだ、と自信満々につけてあげたことがありました。親戚の人に伝えて、頼んだ親戚の人は役場にもらった名前を持っていくと、「陛下」の「陛」は名前用の文字として認められていません。そう拒否されて、父はガッカリした、ということがありましたね。
今は、「陛下」の「陛」は認められているみたいです。お父さん、私は個人的には、「陛」という字なんて使わなくてよかった、と思ってましたけど、お父さんは考えたんですもんね。お父さんが名付け親になるはずだったのに! 結局、頼んだ人はお父さんの名前をもらうことにしたんでしたね。まあ、それでよかったのかなあ。でも、その機転がすごいなと感心したんでした。
そんなことがありました。
最近、知り合いと名前の話をしていて、こんなことを聞きました。「笑顔」って書いて、何んて読むと思う? 「えみ?」 いえいえ、「にこ」って読むんだよ。へーっ、そうなんだ。
そういえば、「せしる」「いあん」とかいう名前を付ける人もいましたね。なんていうお名前のお話などしていて、
「あれ、セシルって男の名前? たしか、映画の大ブロデューサーで、セシル・B・デミルっていたよなあ。昔のハリウッド大作映画で、この人たちの名前を見て、壮大な気持ちになったよなあ。」
ここから、私の訳のわからない世界が広がります。
「あの人はたぶん男だけど、サイモンとガーファンクルの〝セシリア〟という歌に歌われてたのは、女の人じゃないのかな。〈せしる〉という名前は、はたして男? 女? 日本でだって、男女兼用の名前があるのだから、欧米でもどっちでも使える名前があるんだろう。
サイモンとガーファンクルの曲は、失恋というのか、冒頭から「You're breaking my heart 」と歌ってたから、女の子に胸を引き裂かれている男の立場を歌っていたし、歌の最後には「僕はお願いする、カム・ホーム」というんだから、逃げられたか、ふられたか、失恋の歌でした。別の意味もあるみたいだけど、そんなのはどうでもいいことで、女の子の名前かなと思っています。
あれ、「いあん」という名前を付ける今の親もいるみたいだけど、「イアン」といえば、イアン・ギランバンドとか、イアン・カーチスとか、イアン・マカロックとか、何だかロックアーチストの名前でしたよ。
イアンって、スコットランド・ゲール語なんだそうです。だったら、イングランドでは何て言うんだろうと思うと、イアンが「John」になるそうです。
聖書では「ヨハネ」、ドイツ語圏では「ハンス」、フランス語では「ジャン」、スペイン語では「ファン」、ロシア語では「イワン」、アメリカでは、「イワン」から「アイバン」になったり、変化しながら、名前は変わっていくみたいです。
そうだ、日本の人の名前も少しずつ国際化しているんですね。じょん、おりびあ、とむ、ありす、でにす、いろいろと吸収して名前の世界は進んでいくんですね。でも、そうなると、逆にコテコテの日本的な、タロウとか、マサコとか、ヨシコとか、アキオとか、ありふれた名前に戻る時もあるでしょうか。
私個人としては、名前にこりすぎない方がいいなと思いました。