甘い生活 since2013

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廃仏毀釈をたどる その1

2022年04月02日 07時17分00秒 | 私たちの社会・世界

 江戸時代から明治の社会になる時に、日本の各地でどんなことが起こったのか、ずっと知りたいと思っています。

 そんなことを知ったところで、今の社会を変えられるわけではないけれど、私たちはそんな社会を持っていたというのを知ると、私たちの今ある形が少しは理解できそうな気がするんです。

 どんなに為政者が、支配する人々を自分たちの思考の方向(枠・型)へ押し込もうとしたって、不自然なものはしばらくするとほどけてきて、元の木阿弥になるなんて、よくあることではないですか。どれだけそういうことに人々は付き合わされ、振り回されるんでしょう。

 だから、現在の私たちは、お寺にお参りするし、神社にだって神頼みする。それが宗教・信仰なのかと問われたら、困るけれど、たぶん、一つの信仰なのだと思います。

 世の中にはいろんな宗教があって、一つの信仰を絶対的に守る人たちにしてみれば、節操のない、信仰を持たない、いい加減な民衆と見えるかもしれない私たちです。でも、それが私たちの自然だという気がします。何しろ千年近くそういう風にやってきたんですから、そういう歴史と伝統は入り込んでいるような気がするんです。

 平安時代からずっと、いやそれ以前にもあったのかもしれないのです。この島国に住む人々は、神も仏もある世界の中にずっと居続けてきたわけです。

 それを明治になって、人々を天皇のもとに束ねなくてはならない。その一つのアイデアとして、神道中心の、仏教のない世界を作ろうとしたようです。仏教を滅ぼそうとしたんですから、少し怖い気がします。そのスローガンが「廃仏毀釈」(ホトケを廃し、お釈迦さまを毀てるだなんて!)でした。



 各地には、いろんなお寺があったはずですよ。長州の殿様のお寺はどうなったんでしょう。

★ 萩市観光協会HPより

 五輪塔形の墓が並ぶ毛利輝元の墓所【国指定史跡】……萩藩を創設した毛利輝元の墓所。もともとここは輝元の隠居所で、輝元亡き後に天樹院という菩提寺が建てられましたが維新後に廃寺になりました。竹林に囲まれた静かな場所に五輪塔形の墓が残っています。

 毛利輝元さんは、毛利元就さんのお孫さんです。豊臣政権下に入っては四国・九州出征において先鋒をつとめ、参議に任官。1589年には広島の太田川口のデルタに築城を始め、この地を広島と命名。本拠を吉田郡山城から広島に移す。
 1591年には、秀吉から安芸・周防・長門・石見・出雲・備後・隠岐七ヵ国および伯耆国三郡と備中国内で120万石の知行目録を与えられ、中国にその勢を振るった。
 1597年にはに五大老に列せられ、秀吉の死去にあたり秀頼の補佐を委託される。
 1600年の関ヶ原の役では、自身は大阪西の丸にあって西軍の総帥とみなされたため七ヵ国を削られ周防・長門両国36万9千石に減封された。
 1604年には築城中の萩城に移った。
 1625年、萩城内で死没。73歳。

という人生だったそうですが、長州藩の藩祖になりますね。その墓所のお寺は廃寺になったそうです。模範を示さねばならないから、長州においても、藩祖のお寺でも取り壊しをせねばならなかったようです。

 そもそも、神道をメインにして、仏教を日本列島からなくしてしまえ、なんていう発想はどこから来たんでしょう。やはり、国学というのか、水戸藩になるのでしょうか。というので、水戸藩の菩提寺を探してみました。



★ 国指定史跡 水戸徳川家墓所HPより

神道、儒学、仏教をそれぞれ尊びながら、
そのひとつの教えにとらわれない
「尊神儒而駁神儒崇佛老而排佛老」

 神道ではないんですね。でも、仏教でもない、そうした枠組みは必要なくて、ただお祈りする心を大切にするということでしょうか。

 となると、わりと日本宗教的なところもある感じでしょうか。

 寿蔵碑(じゅぞうひ)……元禄4年(1691)、光圀は衣冠束帯を土中に埋め、寿蔵碑を建てました。「寿蔵」とは生前に立てる墓のことです。光圀の号を取って碑の表には「梅里先生墓」と刻まれています。碑の陰文は光圀が自らの思いを綴った文章として有名です。

 碑陰文の「神儒を尊びて神儒を駁し、仏老を崇めて仏老を排す」という一節には、神道、儒学、仏教の三つの教えを尊びながら、同時にそのひとつにとらわれない、光圀の思想が表れています。

 お経も要らない。神具も要らない。孔子さんの礼楽も置いておく。だったら、何が残るの? というと、ただ光圀さんを偲びたいという気持ちが残るんですね。これはなかなかいいですね。

 水戸藩は、そもそも菩提寺みたいなのはなかったんですね。廃仏毀釈も起らなかったんだろうか。庶民レベルではお寺をつぶそうというのはあったんでしょうか。本当にそれだけ?



★「生きている」史跡 “Living” historical site

 350年の月日を経て今に至るまで、水戸德川家の歴代当主、夫人はこの地に葬られてきました。儒学の礼を基礎に日本の習俗を取り入れた独自の葬祭礼を受け継いでいます。

 日本だけでなく広く東アジアに視野を広げても、儒学を基礎とした広大な葬祭施設が継承されている事例はほかにありません。世界の研究者が「生きている史跡」水戸德川家墓所に深い関心を寄せています。

 この墓所の変わらぬ価値―「墓所の構成と墓制」、「埋葬と祭祀」、「伝統と格式の継続」、「豊富な歴史資料の存在」、「景観と環境」は、史料調査や工事で得られた新しい知見とともに未来へ受け継がれていきます。

 水戸德川家墓所には初代頼房をはじめ、水戸德川家の歴代当主とその夫人、一族が眠る約200基の墓があります。15万㎡を超える我が国最大の規模を誇る大名家墓所で、今も水戸德川家独自の祭祀が受け継がれており、国の史跡に指定されています。

 
水戸の徳川家全体で、光圀さんの方針を受け継いで、特別な埋葬方法を考えたんですね。すごいことです。慶喜さんも水戸で眠っておられるんでしょうか。

 慶喜さんだけは、将軍になったんですから、別のとこで眠っておられるのかなあ。

 ずっと菩提寺を守ってそうなところ? 仙台の伊達藩はどうだったんでしょう?



★ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
瑞鳳寺  所在地 宮城県仙台市青葉区霊屋下23-5
山号 正宗山
宗派 臨済宗妙心寺派
寺格 一門格(仙台藩)
本尊 釈迦三尊
創建年 寛永14年(1637年)
開山 清岳
開基 伊達忠宗

 仙台の町中に、たしか瑞鳳寺というのがあったと思います。絢爛豪華みたいで、パンフレットはたしか、うちにあると思います。そこが菩提寺で、松島の瑞巌寺は伊達政宗さんがバックアップしたそうだけど、お墓は仙台の町にあったんですね。そこも一度荒れて、よみがえったのは?

中興年 大正15年(1926年)
 瑞鳳寺(ずいほうじ)は、宮城県仙台市の経ケ峯にある、臨済宗妙心寺派の仏教寺院。山号は正宗山。開山は清岳、開基は伊達忠宗、本尊は平泉の毛越寺より遷した釈迦三尊像。

 仙台藩から一門格の寺格を与えられ、経ケ峯に多くの末寺を持っていたが、明治維新期の廃仏毀釈の風潮や廃藩置県による藩の後ろ盾の喪失によりことごとく廃寺となった。1926年(大正15年)に復興されたが、現在は財団法人瑞鳳殿の管轄外となっている。
 境内には、高尾門や鐘楼、伊達忠宗寄進の梵鐘などのほか、殉死した家臣や、戊辰戦争および西南戦争での戦死者らの墓がある。

 仙台でも、伊達政宗さんのお寺であっても廃仏毀釈の嵐が吹いたようです。日本の国って、こういう嵐が吹くことがあったんですね。仕掛けは政府・上からだったかもしれないけれど、それに乗っかって、嵐の中を突き進んで行ったのはたぶん私たちの先祖です。

 仏像を破壊し、お坊さんを許さず、お経を拒否し、こっそり自分の利益を得ようとした人たち、今もどこかでいるような気がします。

 よその土地ではどんなだったか、もう少し調べてみたいと思います。ただのコピー・アンド・ペーストではあるんですけど。

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