久しぶりに家に帰ってきました。何となくうれしいのだけれど、またいつもの単調な日々が続くのかと思うと、もう気が重くなっています。
やらなきゃいけないことはたくさんあります。個人的に少しずつ解決していくしかありません。自分でできることは自分が確実にやるしかない。
お盆の期間で、帰って来た魂たちは、また帰って行ったと思うのですが、こんな風に魂は1年にほんの何日か、一緒に生活していた人たちのところへ帰って来る、そういうお話を作り上げたのは、人間らしい話だなと思ったりしました。
本当は、魂というものなんて、何もなくて、生命は死んでしまったら永遠の無があるだけ、というふうに永六輔さんが以前話しておられたのを聞いたことがありましたけど、それはたぶん事実で、死んでしまったら、それで終わりです。
なのに、この世に生きている人間たちは、みんなで寄ってたかって死んだ人の魂が帰ってくる季節があるんだよ、というでっち上げをして、みんなでそう信じて祈ることをしています。すべて宗教はこの世にある者たちの利益になるようにできている。
他の生き物にはできないことだから、死者の魂を呼び、自分たちのところへ帰って来ると信じ、祈り、やがては自分たちもそんな風に残した家族に思われたい、というのは理想であり、希望であり、夢でもありました。
若い人は、自分が盆に帰る人になるなんていうのは想像もできないだろうな。そんなのは信じられないはずです。そう思いたい人がいるというのを見ているだけです。
ところが、年を取ると、そういうことがあってもいいなと思えるようになるんだから、人間というのは、自分の頭の中で日々更新し、日々老化と深化と退化を繰り返しながら、あるべき姿を模索する生き物なんだと思いました。人間は常に変わっている生き物、いや生き物全てが変わっているというところかな……。
それはいつ? そんなことどこで考えたんだろう。
たぶん、クルマのハンドルを握りながら何となく思ってたり、実家で家族と食事を少しだけして、ついでに延々と阪神タイガースの元気のない試合を見続けたりして、何となく考えたんです。
実に人間って、つまらないルールを決めて、それを守ろうと努力したり、破ろうとしたり、変な思い込みをしたり、そんなそれぞれのこだわりを抱えながら生き、時にはそれを人に強要し、時には自分もそれに従わされたり、不自由に生きていく生き物なのだ、というのを感じました。
そんななら、なるべく自由に生きて、好きな人と一緒に過ごし、ゆったり時間を過ごせたらいいのに、それがなかなかできないし、いざとなるとすぐにルールがぶつかり合うのです。
それがずっと人間の歴史のようです。これからも、他人を束縛したり、自分のわがままを拡張したりして、人に迷惑をかけたり、地球そのものを大変な状況にしたりしながら、人間たちは生きていくのです。
長続きはしない気がしています。いつか限界は来ます。それはどうしようもない。その限界のダメージをなるべく抑える知恵を絞り、人間たちには生き続けてほしいけど、私にはそれは見えてきません。
しんみりとしたお盆です。もうお盆も終わりですね。暑さはまだ続きます。私は自分にやれることを一つずつこなしていきたいと思います。