甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

佐賀県・三重津の海軍基地あと

2019年01月18日 22時37分23秒 | あこがれ九州

 福岡県大川市の昇開橋を訪れた後、そこのオジサンたち2人に、
「せっかく三重県から来られたのなら、三重津海軍基地跡に行ってみなさい!」
という提案をいただきました。

 そんなに興味はなかったのだけれど、乗り掛かった舟で、「じゃあ、行ってみます」と宣言して、
「どうしたら、そちらに行けるんですか?」と訊いてみました。

 すると、この堤防づたいに30分ほど歩くと着きます、と教えてくださいました。

 そこまで言われたら、オッチョコチョイ心に火がついて、やみくもに歩いてみることにしました。

 何があるのかしらないけれど、どうせヒマなんだし、とことん行ってみよう。そして、往復1時間歩いたらまた戻って来ようと決めたのです。

 橋の真ん中から、ずっと見えていた雲仙岳がうっすら見えました。島原半島はすぐそこにあります。間には有明海があるだろうけど、すべてがつながっている感じです。その流れで、海軍の基地がどういうわけでこんな筑後川をさかのぼったところにあるのか、それを確認したかったのです。

 それに、全く知らないところに行くという楽しみもありました。



 佐賀県側から福岡県側が見えます。漁港になっているのか、少しゴチャゴチャな感じです。福岡県側には港みたいなのはなかったのに、こちらはあれこれと入り込むところがあるようです。

 どんどん歩いていくと、筑後川の本流から分かれているのか、川に入り込んでいるのか、下流に歩いていたはずだから、たぶん川が分流した方に堤防は続いていたのだと思われます。でも、大きな川だから、あちらこちら中の島みたいになっていて、それぞれを堤防でくるんであるのか、橋はどこにあるのか、モヤモヤした気分だったんです。ストーンと堤防が続いているわけではなかった。

 私は、どんどん細い方の川に向かって行るようでした。とにかく30分を目標に、たどりつけなかったらそれでいいし、堤防の尽きるところまで行ってみようとしました。



 道なりに進んでいくと、とうとう橋が出てきました。この橋を渡るべきか、それとも無視して突き進むべきか、よくわからなくなりました。

 水門と徐福さんに誘われて、とりあえず橋を渡り、向こう岸の土地を見て、右なのか、左なのか、標識はあるのか、あれこれ探してみましたが、人はいないし、どういうわけか徐福像があって、くわしいことは何一つわかりません。

 30分は過ぎたかもしれない。何か案内板か、地図か、何かがあればそちらに進めるのだけれど、だあれもいません。もちろんスマホだってありません。

 私は、「橋を渡ったところをすぐのところにありますよ」と聞いてきたので、徐福さんの橋を渡ったすぐのところにあるのかと思っていたのです。でも、何も見えなかった。

 先ほど、地図で確認したら、橋を渡って、左にもう少し進むとたどり着けたみたいなのです。でも、そういう気配が感じられなくて、私はこの橋の袂から引き返すことにしました。堤防よりも真ん中を突っ切る方が早く帰れると判断して、町中の道を歩きました。道はしっかりまっすぐでどこかにつながっているみたいなのに、クルマは通らず、無人の町を歩くごとしでした。

 残念ながら、もう少しの所で道を間違えて、目的地にたどり着けませんでした。でも、とりあえず1時間は歩いたし、また来るチャンスがあれば、その時に見せてもらえばいいのだからと、一人合点して、スゴスゴと帰りました。

 途中で、こんな看板を見つけます。



 今から二千二百年前、中国から不老不死の薬を求めて蓬莱の国にやってきた徐福さんたちの船が有明海に入ってきました。上陸する場所を探していた徐福さんが言いました。

 「今からこの杯を海に投げてみるぞ、この杯が流れつくところから上陸しようではないか」と。

 海に杯を浮かべると、普通なら沖へ沖へと流れていくのに、陸へ陸へと上っていき、葦の茂った海岸にたどり着いたそうです。宣言通りに徐福さんたちの一団は小舟に乗って杯を追いかけ、とうとう蓬莱に上陸した。

 土地の人間たちはびっくりして、うろたえたことでしょうけど、相手の立派さに驚き、これは文明国のエライお方なのだろうと受け入れ、自分たちの土地を「浮盃(ぶはい)」と呼ぶことにして、徐福さんたちを受け入れた。そして、看板にある通り、二千二百年前の杯そのものも記念として受け継いでいるという話でした。

 だったら、九州国立博物館にでも置いてあるのかもしれないけど、そういう話もあるもんなんだと感心して、海軍基地跡を訪ねそこねた失敗はフォローしたつもりでした。見つからないのだから、それは仕方がないと諦めたんです。

 もう、何となく早く柳川を観光したい気分になっていたのでした。

 再び橋にもどったとき、オジサンたちには、「行きつけませんでした」とは言えなくて、「ありがとうございました」とふたたび声をかけました。自分の不甲斐なさを公表するみたいで、満足した感じで(もちろん満足していたんです)もときたバス停を探すことにしました。

 でも、バスはすごく遅れていて、30分遅れでやっと来てくれました。そんなに寒くなくて、それが有り難かった。

 


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