私の郷里、柳河(やながわ)は水郷である。そうして静かな廃市の一つである。
自然の風物はいかにも南国的であるが、既に柳河の街を貫通する数知れぬ溝渠(ほりわり)のにほひには日に日に廃(すた)れてゆく旧(ふる)い封建時代の白壁が今なほ懐かしい影を映す。
白秋さんが、ふるさとの柳川を語っていました。ここのお堀、ほとんど水は流れていなくて、静かに淀んでいるようです。それほどきれいでもないけれど、汚いというほどではない。
何十年か前には、とんでもなく汚れた時期もあったようですが、そこから復活して、私と彼女は1985年に初めてそこを訪れました。
西鉄柳川駅からすぐのところで川船に乗り、ずっと北原白秋の生家近くまで案内してもらった記憶があります。
その時は夏だったから、暑かったはずなんだけど、夕立もあったから、曇っていたのかもしれません。
現在は、4つの川船観光業者があって、それぞれに工夫してお客さんを集めているようでした。今回の私は、写真が撮りたいだけのデバガメツーリストだから、川船には乗らず、ひたすら何かを求めてさまよいました。
時々は市役所でトイレさせてもらったり、お菓子やさんを冷やかしたり、見覚えのある風景を探しました。
でも、まるで引っかかるところがありませんでした。どうしてなんだろう。
たぶん、舟でスーツと目的地まで達したので、途中には記憶に残るところはなかったのかもしれません。
肥後路より、あるいは久留米路より、あるいは佐賀より筑後川の流を越えて、わが街に入り来る旅びとはその周囲の大平野に分岐して、遠く近く瓏銀(ろうぎん お堀の水の色のことかもしれない)の光を放つてゐる幾多(いくた)の人工的河水を眼にするであらう。
さうして歩むにつれて、その水面の随所に、菱の葉、蓮、真菰(まこも)、河骨(かわほね これは何?)、あるいは赤褐黄緑その他様々の浮藻(うきも)の強烈な更紗模様(さらさもよう)のなかに微(かす)かに淡紫(うすむらさき)のウオタアヒヤシンスの花を見出すであらう。
町には独特の風情があります。お堀のないところは、普通の地方都市という感じだし、市役所もその隣の市民会館もサビサビで、もう何十年も前に建てたものをそのまま使っています。
もちろん、それでいいのだけれど、古くさい感じはします。コンクリートの建物は、すぐに古びてしまうから、それにアクセントをもたらすには、木を植えるか、建てる場所を考えるか、噴水を作るかしかないですからね。
とにかく、町そのものは古びていました。白秋さんの時代とそんなに変わっていないかもしれない。
それをグッと独特な雰囲気にさせる仕掛けがお堀で、もう町のあちらこちらに縦横に走っていて、まっすぐ行くと橋があったりする。クルマはそこを無表情に通っていくだけですが、歩いてみると、水の色をみないわけにはいかないし、そこを舟で通る観光客が自然と目に入るのでした。
夏はもちろんのこと、冬であっても、舟は進んでいくし、回送の舟なら、数艘を1人で操る人だって何回か目撃しました。
水は清らかに流れて廃市に入り、廃れはてた Noskai屋(ノスカイ屋 遊女屋)の人もなき厨(くりや)の下を流れ、洗濯女の白い洒布に注ぎ、水門に堰かれては、三味線の音の緩(ゆる)む昼すぎを小料理屋の黒いダアリヤの花に歎き、
酒造る水となり、汲水場(くみず)に立つ湯上りの素肌しなやかな肺病娘の唇を嗽(すす)ぎ、気の弱い鶩(うぐいす)の毛に擾され、そうして夜は観音講(かんのんこう)のなつかしい提灯(ちょうちん)の灯(あかり)をちらつかせながら、樋(いび)を隔てて海近き沖ノ端(おきのはた)の鹹川(しおかわ)に落ちてゆく。
白秋さんのころは、お堀の水は命の水であったんでしょう。今はたぶん水道も設置されて、お堀の水は観光のためだけになっているのかもしれないけど、当時はその水で人々は生活を支えていた。
お堀に向ける人々の顔は、生活そのもので、疲れた人や何人もの女性たちの苦労する姿が目に入った。白秋さんは、小さい時から女の人に目が行ってしまう人だったんでしょう。さすが福岡男です。サッと視線を走らせて、ステキな女の子を見つけ、その子の悲哀まですくってしまう。この早業。白秋さんやタモリさんたち、福岡男たちはこうして地元の女の人たちを見てきたわけですね。……私にはできない芸当かもしれない。すぐに照れてしまうかも。
でも今は、そこは生活臭さを見せる場ではなくて、ツンとお澄ましして、どうです、風情があるでしょ。さあ、せいぜい観光していきなさい、という見栄えのいい場所になったのかもしれません。
お堀端を歩いていて、こじゃれたお店があって、お堀に向けてガラス窓を大きくとっている洋風の家も見かけました。観光客を誘っているようでした。
私は、そういうところには出入りできなくて、外から眺めるだけで、「何か、前来た時と違うな」と頭をひねることばかりでした。
白秋記念館を見学し、前来た時は、魚屋さんが営業していて、見たこともない魚介類がズラッと並んでいて、食べるより何よりその見た目にビックリしたんですけど、今回は冬だし、お店はやってなくて、もう帰るだけでした。
静かな幾多(いくた)の溝渠(ほりわり)はかうして昔のまま白壁に寂しく光り、たまたま芝居見の水路となり、蛇を奔らせ、変化多き少年の秘密を育む。水郷柳河はさながら水に浮いた灰色の柩(ひつぎ)である。
34年前の夏、私たちは柳川の町を奥のところまで舟に乗ってやって来て、帰りは、赤い倉庫の手前までは行かなくてはと決めました。そこが上陸したいポイントナンバーワンのところでした。
駅までの道、碁盤目状になった町をジグザグしながら歩いていたら、夕立が来て、傘を持っていなかった私たちは、お寺のお堂下で雨宿りをしました。30分くらい、ずっと雨が落ちてくるのを見つめていて、じっと耐えていたら雨は抜けていきました。
それから、小学校の横を通り、細い道に入り込んで、とうとう赤い倉庫の前まで来て、そこで彼女にポーズを取ってもらって写真を撮りました。
そこから、熊本に着くまでの記憶はありません。どんなふうにして熊本に出て行ったのか、メモによると市電に乗って、ちゃんとホテルに行ったということでした。
何を食べて、何を感じていたのか、もう思い出せなくなっています。淡いトーンの大林亘彦さんの映画みたいになってしまっています。