甘い生活 since2013

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あっけらかんボルヘス

2019年01月17日 21時49分24秒 | 本と文学と人と

 ウィキペディアに「ボルヘス」の項にこんなのがありました。

 小説家としてのボルヘスはその作家生活において長編小説を一度も書かなかった。彼の最も長い小説「会議」(『砂の本』収録)でも、せいぜい10数ページ(日本語訳で2-30ページ程度)しかない。

  彼は若い頃から節約された言葉と明快な構成を持つ短編小説の形式を愛しており、簡潔な文章で異常な世界を描く彼の作風は1960年代のラテンアメリカ文学ブームで有名になった「マジック・リアリズム」の代表的な例としばしば見なされている。 

 よくわからないけれど、とにかくボルヘスという作家の作品は、少し変わっているらしい。読む人間が試されているというのか、どうとらえるか、私たちの世界そのものも見直しさせられる感じなんだろうか。

 メモしたのは、その最も長いという「会議」という小説の冒頭です。


★ ボルヘス「会議」(1975) 篠田一士・訳

 わたしは、ちょうど、七十歳といつくかになろうとしており、いまなお、ひと握りの学生に英語を教えている。

 優柔不断のせいか、それとも他の理由からか、結婚歴はなく、ずっと、ひとりである。孤独に悩むことはない。自分と、自分のくせとに折り合ってゆくので精一杯だ。

 自分が刻々と年とってゆくのは分かっている。そのまぎれもない徴候は、新奇なものに対して、もはや興味をもつことも、目をみはることもない、という事実である。多分、そうしたものには、本質的な新しさなどなにひとつなく、小心なバリエーションにすぎないことに気がついているからだろう。

  若い頃は、黄昏や場末や悲運に魅(ひ)かれた。今は、都心の朝や静穏の方がいい。もうハムレットを気取ることもない。

 私は70歳。お仕事はしていて、新しいものはすべて底が知れていると感じ、ちっともその新奇さに踊らされることはない。若いころに興味を持ったことにちっとも関心が起きず、サッパリした日々を送っている。

 まさに私の理想とする世界です。それから、どんなことをするんでしょう?


 わたしは保守党に入党し、チェスのクラブの会員になった。後者はただの見物人として、それも、ときには上の空の見物人として、しばしば訪れる。

 詮索(せんさく)好きな人なら、メキシコ街の国立図書館の、どこか目立たぬ棚から、わたしの『ジョン・ウィルキンズの分析的言語についての小論』を一冊、取り出してくることもできる。多くの誤りを訂正するか、せめて少なくするためにでも、改版が必要な作品だ。

 新しい館長は文学者で、まるで現代語では幼稚さの度合が、まだ不十分だとでもいうように、古代語に没頭し、また、ドス使いたちの架空のブエノスアイレスに対する、扇動的熱狂に身をまかせているという。

  彼に会いたいと思ったことはない。わたしがこの都会にきたのは一八九九年だが、ただ一度だけ、ドス使い、あるいは、そういう評判の人物に、たまたま出会ったことがある。

 意味不明の所はあります。でも、何だか年寄りの生き方としておもしろそうで、楽しそうな生活だなと思ってメモしました。

 この「会議」など、もう失明してから助手さんに口述筆記で書いてもらったものだったんでしょう。

 その不思議さがいまいちわからないまま、何か変な世界だなと思って読んでいます。

 さあ、今晩も、まだ早いけど、横になって本でも読むことにします。

 何か気づくことがあったら、書いてみます。

 それにしても、どうして昨秋、古本市でこの本を買ったんでしょう。何か文学に飢えてたのかな。何だか幻想文学みたいなのにふれてみたかったのかどうか……。



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