表紙の像の画像は、借り物で、鹿児島県のいちき串木野市にある「日本一の徐福像」なのだそうです。
こういうのがあると知ったのは、NHK-BSの「こころ旅」で火野正平さんがここからスタートして、たぶん、町の方へ走っていった時のスタート地点になったのではないかと思われます。
石像は、西を向いているそうです。そちらには中国大陸があり、中国の秦皇島市(そんな都市名があるなんて知りませんでした。あまりにそのまんまです!)の始皇帝像に向き合っているということでした。2000年に作られたそうで、高さは6mなんだそうです。
こちらは、私がこの正月の4日に、佐賀市の諸富町に足を踏み入れた時、昇開橋のたもとで見つけた徐福像でした。
できたのは2012年の3月だそうで、徐福さんが日本をめざして旅だった東渡(とうと?)2222年記念に、中国の慈渓市(出航成功地なんだそうです)から佐賀市に贈られたものだそうで、そちらと佐賀市は友好関係にあるようでした。船が出たところと船がたどり着いたところという縁なんでしょうか。
夏と秋に出かける三重県の南、熊野地方。実はここも徐福さんのふるさとでした。
今から30年前、初めて三重県の南に住み始め、時々はクルマですぐの和歌山の新宮市に出かけたりするようになって、少しずつ徐福さんのことを知るようになりましたが、当時はそんなに取り上げられてなくて、小さな何もない空地が徐福さんのゆかりの土地だということになっていました。
なんと紀州藩のお力で1736年に徐福さんのお墓みたいなのが立てられたそうで、30年前は荒れ放題になっていたのが、1994年に公園として整備して、石像みたいなのが立てられたりしたようです。
新宮から東北の熊野市の波田須(はだす)という集落にも、徐福さんが上陸し、住みついて、そこでいろんなことを教えてくれたという話が残っていて、祠もあったそうです。明治になって、神社を統合させる政府の意向で祠は取り壊されてしまっても、地域の人はずっと隠れ徐福ファンとして存在し続け、統制のタガがなくなったら、あっさりおまつりすることにした、という土地もあります。
徐福さんとは、実在の人物なのか、フィクションなのか、それはわかりません。
でも、伝説は太平洋側にも、日本海側にも残されている。
各地に残されていた伝説を取り上げ、石像の形に仕立てたのがこの最近のことで、中国と日本の関係を改めて根本から見つめなおす時期と重なっているのかもしれません。
20世紀の終わりから21世紀の初めにかけて、もう一度徐福さんから始めよう、と日本側からの提案です。中国の人は、そんなことより日本から持って来れるものはどんどん持って帰りたいし、お金もたくさん使いたいと思って、ただの消費者として、旅の恥は掻き捨ての旅行者として来るばかりですけど、もう一度見直そうよ、こんな人がいたんだよと、ささやかに日本の各地では提案している。
あまりに微妙なメッセージなので、大陸的な人には通じないと思います。
でも、私たちは今も、2200年前の渡来を大切に思ってはいます。手は差し伸べているんです。だから、それを引っ込めることなどせずに、秋波は送り続けねばならない。言葉で気持ちも伝えなくてはいけない。
石像は形としては残るけど、何も語ってくれないですから、ぜひニーハオでも、ハローでも言わなくては!