てっきり親鸞上人かと思っていましたが、それはまちがいで、法然上人でした。どうして兼好さんは何百年も前のお坊さんの話を取り上げたのか、よほど感心したんでしょうね。
ある人、法然上人に、「念仏の時、睡(ねむり)にをかされて、行(ぎょう)を怠(おこた)り侍(はべ)ること、いかがして、この障(さわ)りを止め侍らん」と申しければ、
「目の醒(さ)めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。
ある人が法然上人に質問しています。(ものすごく切実な問題だったんでしょうね)
「上人様、お経を読む際に、ものすごく睡魔に襲われるのです。坊主としての仕事に手抜かりが生まれてしまうのでございますが、この問題をどうしたらようのでしょう。
私が悪いのは承知しておるのです。ただお経を読むとなると、ものすごく眠くなってしまうのでございます。」
(法然さんはどう答えてくださるのでしょう?)
「起きている間にお念仏をなさい。眠くなったら眠りなさい。目が覚めたら、またお念仏をしたらよいのです。」と教えてくださいました。
これは尊いおことばでした。悩みに真正面からぶつかるのではなくて、あるがままにせよとの教えでした。つぎは何でしょう?
また、「往生(おうじよう)は、一定(いちじょう)と思へば一定、不定(ふじょう)と思へば不定なり」と言はれけり。これも尊し。
お念仏を唱えると極楽往生ができるという教えはあるけれど、「往生はすでに決まっていると思うのならばすでに決まっており、決まってないと思うのならば決まっていない。要はその人の心次第であり、思う者こそが往生するものなのですよ」とお教えくださいました。
このおことばも尊いもので、信ずるものこそが救われる、意あれば通ずるという物事の真理をシンプルなことばで伝えてくださいました。あと一つあります。
また、「疑ひながらも念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。
気持ちも大事だけれど、本当に念仏なんかで往生できるのか、ウソなんじゃないの。そもそも往生ってなんだよ。そんなの信じられないよ。と疑う人がいます。
「(それでも)疑いながらも、念仏を唱えたとしたら、それでも往生することは可能なのです」というおことばも述べられました。これも尊いもので、これくらい言ってくださるのだから、念仏におすがりすれば、ありもしないところに「往生」はやってくるのかもしれない。
確信をもってそんなふうに言ってもらえたら、迷える私たちは、そういうものかと信じてしまいたくなります。はたして本当なのか、それはわからないけれど、これらの尊いおことばを信じたくなるのも事実で、こんな強いメッセージ力を持った方がおられた。
だから、何百年後の兼好さんは、あらためて書き残したくなった、というところですね。すごいなあ。この自然だけど無類の自信、これはホントにたくましい、尊い、と思います。