Kは相変わらず、勉強しないでつぶやきをノートに書き付けていた。
▼制服がまぶしい女学生が目に映った、ような気がする。
自分はあいかわらず下を向いている。
はっきりと見つめたいが、雨が降っている。
電車が来た。
はっきりとさっきの女学生を見た。髪が揺れている。
そして、オハヨウと言ってくれた。
自分もあいさつをしたが、声が出ず、口だけが物憂く動いた。
その子は昔知ってた子だった。
ボクたちを乗せた電車が、鉄橋を渡るとき、水がはねてるのが見えた。 [1977.2]
また今日も会えるかどうかドキドキし駅の階段上がるわれかな
環状線の駅のホームは高いところにあった。だから、市バスを降りて駅へ駆け込んでも、そこから何段もの階段を上がらねばならない。エスカレーターなんてなかった。それはもうみんなが体力勝負で駆け上がり、駆け下りる。
電車が来ていたら、お仕事の人々の降車の客の波に逆行しなければならない。スルスルーッとホームに上がれる時もあれば、全く波が行き過ぎるまで立ち往生せねばならない時もあった。
階段を上りきってホームにたどりつけたら、今度は自分が降りる駅の改札口に一番近い車両に乗るためにホームの端まで移動するのである。
こんなにまでして時間を惜しむのはギリギリの通学をしているからなのだった。だが、ゆとりのない朝の通学の3年間で、ごくたまにホッとするひとときがあった。
その女の子とは、幼稚園が1年間一緒で、同じクラスだった。卒園後、小学校は学区の関係で離ればなれになり、完全な6年間のブランクがあった。それが、中学1年の夏、Kが近所の塾へ行くことになり、そこで突然に再会することになったのだ。再会というよりは、新たな出会いというべきかもしれない。
色白の子で、髪はサラリとしていて、そういう髪質の子がたまにいるものだが、ナチュラルに茶色がかっていた。気取ったところがなくて、同じ小学校の女の子たちよりもはるかに落ち着いて見えた。しっかりした女の子として彼女は突然Kの前に現れた。
……藤田嗣治さんの少女像を借りてきました!
髪もキレイだったけれど、お肌は透き通るように白く、性格はおだやかで気取りがなく、あまり男と女の区別を感じない、それでいてしとやかさというのか、控えめででしゃばらない、理想的な女の子だった。けれども、あまりにフランクにお話をしてくれるし、あまりに素直すぎる子だから、彼女に恋愛感情を起こすことは、とてもいけないことのように思えて、とても「かわいい」とか、「何か気になる」とか、特別な感情は持てなかったのだ。
それに、たまたま間違って恋愛感情らしきものを育てたとしても、すぐに見透かされてしまって、「どうしたの? 変な顔して」とか、「それは本当なの?」とか言われたら、すぐに貝の中へ引っ込んでしまいたくなるくらい、それくらいすべてを見透かす観音様のような女の子だったのである。
だから、せっかく再会したといっても、ただ茶化したり、一緒に笑ったらすべて吹き飛ばされてしまう、そんな女の子がいた。
幼稚園のころの思い出などをたどるまでもなく、どこかで見知っていたような気がして、割とすぐに仲良くなれて、しばらくすると「カッパさん」というあだ名を提供してしまうのだった。というのも、キョトンとした時の表情が陽気でかわいいカッパに見えたのだろう。
彼女は、ヘンテコリンなあだ名をつけられた当初は戸惑ったかもしれないが、怒る風でもなく、一応受け止めてくれて、相変わらず冷静で優しい雰囲気をたたえていた。
実はKは、そんな寛容な女の子に接したことはあまりなかった。たいていの女の子は、ほんの少しのことばや、ちょっとしたことに過剰に反応し、相手が降参し、謝罪するまで許さないものだった。今まで出会った女の子はみんな不寛容であった。ところが、彼女は他の女の子たちとは違っていた。
すべての女の子は、少年たちには不思議な存在といえるが、彼女は特に不思議な人で、しかもやさしさにあふれていた。攻撃性がまったくなく、どんなムチャなことも否定せずに受け止める、決してムキにならない。いつも穏やかさにあふれ、男どものすることを冷静に見ていた。そして、批判もせずに、やさしいコメントを与えてくれる人だった。
Kはただ一緒にいて塾で勉強する仲間として中学3年の夏までを過ごした。けれども、中3の夏休み前に、塾での勉強よりは自分でやる方が能率が上がると主張して、塾をやめてしまう。それにオッチョコチョイのKは塾へ行くと、すぐおしゃべりなどをして、勉強がおろそかになるのがわかっていたので、止めてしまった。
そういういう自分から脱却するため、塾通いを止める決意をしたのであった。けれども、今まで一緒に塾で勉強していた仲間にしてみれば変な気分だったのではないか。さんざんかき回していたクセに、突然プイとやめてしまい、何と身勝手でいいかげんなヤツだと思ったはずである。かくして、Kは「カッパさん」と会えなくなってしまった。
高校生になってみたら、彼女は同じ路線の同じ駅で降りるのだが、カッパさんは違う高校に通うことになっていた。Kはそれほど彼女だけを注目していたわけではなかったし、高校になっても特別に意識もしなかった。当然のことながら時々は駅などで一緒になることがあって、同じ出身中学校の生徒なら、特に知り合いでもない限り、お互いに無視して挨拶など交わさなかった。それが普通であった。
けれど、こだわりのない彼女は、お互いに知らない関係ではないので、朝などにKがバタバタとホームを駆け込んでくれば、当たり前のように「オハヨウ」と言ってくれるのだった。
高校生になって、この朝のひとことがどんなにうれしいことだったことか! 今さらながら、過去の自分のいい加減さを突きつけられたような気がして、何とも面はゆいけれど、それでも同級生の女の子、しかも他校の生徒に朝から声をかけられて、Kには天にものぼるようなうれしさを感じることができたのである。
だから、朝彼女を駅などで見つけると、遠くからチラッと見るだけではもったいないから、少しでも近くにいきたいと思うようになった。少しでもそうしたチャンスを逃さないように、あれこれと工夫をし、タイミングを見計らい、時間調整をしたりした。
結果としては、3年間でしっかりと朝に出会えたのは十回もあったかどうかであった。それほどに会えない彼女ではあり、会えるとうれしい人であった。夕方は、ほとんど出会うことはなかった。同じ空間にいながらも、すれちがいばかりの子だったのである。
Kが高校を卒業して、しばらくした時にどこかで一度だけすれ違ったかもしれないが、昔のような挨拶をすることはできなかった。もう、Kと彼女との距離は遠くに隔たっていたのだろう。ひょっとすると、一生会えないかも知れないが、今もサラッと優しい人当たりで彼女は過ごしているんだろう。そして、Kはこれからも彼女のこだわりのなさを記憶し、何かの機会の思い出すかもしれない。
しっかり出会い、しっかり話をして、しっかりお互いを知り合うことはできなかったとしても、いつまでも忘れられない人というのがある。できればもう一度再会できればと思う。けれども、折角そういうチャンスが実際にやってきても、「アラー!」とか言って行きすぎるだけになってしまうものなのである。人との出会いは、いつもしっかりと向き合わねば、人はすぐにすり抜けていってしまうものなのである。
▼制服がまぶしい女学生が目に映った、ような気がする。
自分はあいかわらず下を向いている。
はっきりと見つめたいが、雨が降っている。
電車が来た。
はっきりとさっきの女学生を見た。髪が揺れている。
そして、オハヨウと言ってくれた。
自分もあいさつをしたが、声が出ず、口だけが物憂く動いた。
その子は昔知ってた子だった。
ボクたちを乗せた電車が、鉄橋を渡るとき、水がはねてるのが見えた。 [1977.2]
また今日も会えるかどうかドキドキし駅の階段上がるわれかな
環状線の駅のホームは高いところにあった。だから、市バスを降りて駅へ駆け込んでも、そこから何段もの階段を上がらねばならない。エスカレーターなんてなかった。それはもうみんなが体力勝負で駆け上がり、駆け下りる。
電車が来ていたら、お仕事の人々の降車の客の波に逆行しなければならない。スルスルーッとホームに上がれる時もあれば、全く波が行き過ぎるまで立ち往生せねばならない時もあった。
階段を上りきってホームにたどりつけたら、今度は自分が降りる駅の改札口に一番近い車両に乗るためにホームの端まで移動するのである。
こんなにまでして時間を惜しむのはギリギリの通学をしているからなのだった。だが、ゆとりのない朝の通学の3年間で、ごくたまにホッとするひとときがあった。
その女の子とは、幼稚園が1年間一緒で、同じクラスだった。卒園後、小学校は学区の関係で離ればなれになり、完全な6年間のブランクがあった。それが、中学1年の夏、Kが近所の塾へ行くことになり、そこで突然に再会することになったのだ。再会というよりは、新たな出会いというべきかもしれない。
色白の子で、髪はサラリとしていて、そういう髪質の子がたまにいるものだが、ナチュラルに茶色がかっていた。気取ったところがなくて、同じ小学校の女の子たちよりもはるかに落ち着いて見えた。しっかりした女の子として彼女は突然Kの前に現れた。
……藤田嗣治さんの少女像を借りてきました!
髪もキレイだったけれど、お肌は透き通るように白く、性格はおだやかで気取りがなく、あまり男と女の区別を感じない、それでいてしとやかさというのか、控えめででしゃばらない、理想的な女の子だった。けれども、あまりにフランクにお話をしてくれるし、あまりに素直すぎる子だから、彼女に恋愛感情を起こすことは、とてもいけないことのように思えて、とても「かわいい」とか、「何か気になる」とか、特別な感情は持てなかったのだ。
それに、たまたま間違って恋愛感情らしきものを育てたとしても、すぐに見透かされてしまって、「どうしたの? 変な顔して」とか、「それは本当なの?」とか言われたら、すぐに貝の中へ引っ込んでしまいたくなるくらい、それくらいすべてを見透かす観音様のような女の子だったのである。
だから、せっかく再会したといっても、ただ茶化したり、一緒に笑ったらすべて吹き飛ばされてしまう、そんな女の子がいた。
幼稚園のころの思い出などをたどるまでもなく、どこかで見知っていたような気がして、割とすぐに仲良くなれて、しばらくすると「カッパさん」というあだ名を提供してしまうのだった。というのも、キョトンとした時の表情が陽気でかわいいカッパに見えたのだろう。
彼女は、ヘンテコリンなあだ名をつけられた当初は戸惑ったかもしれないが、怒る風でもなく、一応受け止めてくれて、相変わらず冷静で優しい雰囲気をたたえていた。
実はKは、そんな寛容な女の子に接したことはあまりなかった。たいていの女の子は、ほんの少しのことばや、ちょっとしたことに過剰に反応し、相手が降参し、謝罪するまで許さないものだった。今まで出会った女の子はみんな不寛容であった。ところが、彼女は他の女の子たちとは違っていた。
すべての女の子は、少年たちには不思議な存在といえるが、彼女は特に不思議な人で、しかもやさしさにあふれていた。攻撃性がまったくなく、どんなムチャなことも否定せずに受け止める、決してムキにならない。いつも穏やかさにあふれ、男どものすることを冷静に見ていた。そして、批判もせずに、やさしいコメントを与えてくれる人だった。
Kはただ一緒にいて塾で勉強する仲間として中学3年の夏までを過ごした。けれども、中3の夏休み前に、塾での勉強よりは自分でやる方が能率が上がると主張して、塾をやめてしまう。それにオッチョコチョイのKは塾へ行くと、すぐおしゃべりなどをして、勉強がおろそかになるのがわかっていたので、止めてしまった。
そういういう自分から脱却するため、塾通いを止める決意をしたのであった。けれども、今まで一緒に塾で勉強していた仲間にしてみれば変な気分だったのではないか。さんざんかき回していたクセに、突然プイとやめてしまい、何と身勝手でいいかげんなヤツだと思ったはずである。かくして、Kは「カッパさん」と会えなくなってしまった。
高校生になってみたら、彼女は同じ路線の同じ駅で降りるのだが、カッパさんは違う高校に通うことになっていた。Kはそれほど彼女だけを注目していたわけではなかったし、高校になっても特別に意識もしなかった。当然のことながら時々は駅などで一緒になることがあって、同じ出身中学校の生徒なら、特に知り合いでもない限り、お互いに無視して挨拶など交わさなかった。それが普通であった。
けれど、こだわりのない彼女は、お互いに知らない関係ではないので、朝などにKがバタバタとホームを駆け込んでくれば、当たり前のように「オハヨウ」と言ってくれるのだった。
高校生になって、この朝のひとことがどんなにうれしいことだったことか! 今さらながら、過去の自分のいい加減さを突きつけられたような気がして、何とも面はゆいけれど、それでも同級生の女の子、しかも他校の生徒に朝から声をかけられて、Kには天にものぼるようなうれしさを感じることができたのである。
だから、朝彼女を駅などで見つけると、遠くからチラッと見るだけではもったいないから、少しでも近くにいきたいと思うようになった。少しでもそうしたチャンスを逃さないように、あれこれと工夫をし、タイミングを見計らい、時間調整をしたりした。
結果としては、3年間でしっかりと朝に出会えたのは十回もあったかどうかであった。それほどに会えない彼女ではあり、会えるとうれしい人であった。夕方は、ほとんど出会うことはなかった。同じ空間にいながらも、すれちがいばかりの子だったのである。
Kが高校を卒業して、しばらくした時にどこかで一度だけすれ違ったかもしれないが、昔のような挨拶をすることはできなかった。もう、Kと彼女との距離は遠くに隔たっていたのだろう。ひょっとすると、一生会えないかも知れないが、今もサラッと優しい人当たりで彼女は過ごしているんだろう。そして、Kはこれからも彼女のこだわりのなさを記憶し、何かの機会の思い出すかもしれない。
しっかり出会い、しっかり話をして、しっかりお互いを知り合うことはできなかったとしても、いつまでも忘れられない人というのがある。できればもう一度再会できればと思う。けれども、折角そういうチャンスが実際にやってきても、「アラー!」とか言って行きすぎるだけになってしまうものなのである。人との出会いは、いつもしっかりと向き合わねば、人はすぐにすり抜けていってしまうものなのである。