机の上にメダカ2匹とエビ1匹を入れた水槽があります。夜はコードを引き抜くのですが、今は酸素をブクブクさせています。この小さなメダカたちも、春になったら外に出してあげるのですが、あとしばらくは家の中で飼うことにします。
こうして歳月を穏やかに過ごせるということはすばらしいことなのに、なかなか私たちはそれが理解できません。だれかがそんなことを口にしていても、適当に聞き流して、自分のことにはしていません。人は人、自分は自分で、自分はとりあえず前向き・上向き・向こう向きです。今ここにある自分では不満なので、もっともっと豊かで楽しい自分を追求するのです。
ああ、いつになったら私たちは穏やかな日々を過ごせるのやら、それはなかなか難しいです。
行動するジャーナリストさんは、自国の売り込みに忙しい政治家に振り回されて、テロ組織に殺されてしまいました。テニスの大会はオーストラリアで粛々と進められ、シャラポワさんは敗れ、錦織くんも敗れてしまった。日本がベストエイトで散ったアジアカップは地元のオーストラリアが優勝するし、世界の各地でスポーツイベントは続くでしょう。日本だって、サッカー・ラグビー・その他の大会やリーグが予定通り進むでしょう。
けれども、そんなスポーツよりも世界の紛争に踏み込む人たちもいて、紛争をさらに深める人たちもいます。たまたま私は関係なく過ごしていますが、どうして世界に紛争はなくならないのか、と思ったりします。
そして、今朝はその1人のジャーナリストさんの死の知らせで目が覚めました。だからどういうのではありませんが、とうとうその日が来てしまったというのが今の感想です。私にはどうにもできなかった。首相官邸前でアピールしても、政府にその気がないのだから、適当な時間稼ぎで期限が来るのは当たり前です。また、相手の組織も交渉の材料としてしか人の命を見られなくて、交渉に使えたらカネに換金して、使えなかったら殺すというだけで、とりあえず自分たちの恐ろしさを東洋の小国に少しだけ伝えられたでしよう。
次は、インドとか、ロシアとか、中国とか、新たなカモを見つけるまでです。ああ、こんな殺人地域があるなんて、こんな野蛮な地域は何とかしなきゃいけません。でも、これを助けているのはいったい誰なんでしょう。このテロ組織を消滅させて、解散させて、あたりに平和をもたらすにはどうしたらよいのでしょう。
だれか勇気ある人が、何も持たずに飛び込んでもダメですね。それを助ける誰かを止めなくてはいけない。私にはわかりませんけど、日本の人道支援がその力になるとも思えないので、とにかく、周辺の国々にテロ組織をつぶす努力をしてもらいたいです。
昨日、司馬遼太郎さんの『「昭和」という国家』(1999)というのを読んでいて、こんな文章に出会いました。
「これは戦争ではなかったな」
こう、二十二歳の西野青年(司馬さんの同級生の上官)が言ったのを覚えています。彼はプロとしての教育を受けてきてですね。戦争らしい戦争というようなものを、太平洋戦争の進行のなかで見たことがなかった。
つまり一方的にやられているわけであります。一方的にやられて、これは戦争らしい戦争じゃないと、実際二十二歳の青年でも敗戦のときにつぶやかざるを得なかった。そういうことを、昭和の日本国はやったわけですね。
戦争というのは、「やったりやられたり、いわば対等の競り合いであって」、日本が連合国に立ち向かったのは「戦争ではなかった」ということです。そんな戦争をどうして日本という国がやってしまったのか、それを歴史家であり、小説家でもあった司馬遼太郎さんが語っておられるのですが、司馬さんもどうしてなのかわからないと言っておられる。
でも、ヒントがあって、江戸時代までは多様性があった。それが明治の躍進を人と国全体で支えるベースになったけれど、それが日露戦争以後、一面的になって、最悪の戦争を引き起こしてしまった。これは特に軍部だけのしわざではなくて、社会全体がそうであったというのです。締め付けもあったかもしれないけれど、社会がそうだった。
では今は? 今も多様性があるように見えて、とても一面的なところがあって、たぶん自分から戦争を巻き起こす愚かなことはないだろうけれど、何か1つの価値観にとらわれてしまうところがあるのではないかと心配されていました。
国民の大多数は、ジャーナリストの死を悼むことでしょう。しかし、当たり前だ。殺されて当然だ。お母さんや奥さんの所にもあれこれ調べて苦情やいやがらせなど、それはどこからそんな情熱が起こるのかとおもわれるくらいのことをしてしまう人たちもいるでしょう。
これが多様性というわけではないですね。死を悼む気持ちに変わりはないのかもしれない。わからないイスラム国への不安感が、このようなおぞましい行動に出てしまうのでしょう。そうです。私たちは、あまりに世界を知らないし、知ろうとしていないのだと思います。そして、だからものすごく不安なのです。
江戸の人たちは、もっと地道に知ろうとし、海外には行けないけれど、懸命に勉強して何かを知ったでしょう。今の私たちは知ったような気になっていますが、実は何も知らない。だから不安だし、知らなくても適当に暮らしていけるから、知る必要はなくて、世界を知ろうと飛び込む人が目障りでしょうがないのです。
だから、過激な物言いになってしまう。私たちの社会は、ものすごく平板で、いい加減で、世界に飛び出ている人たちだけがリアルで、日本国内は何となく夢の国のような感じです。その夢の国の住人であるという自覚がなくて、ただめったやたら不安と不満がいっぱいなのが今の私たちです。
私たちは、(たぶん?)ぼんやりしていも90歳まで生きることができる。街にはものがあふれている。自由に好きなことが言える。人殺しだって趣味の範囲でやれてしまう。
現実を生きていないですね。目の前にいる人をオノでたたき殺しても、それを現実として受け入れられないし、クラスメートが突然目が見えなくなっても、特に罪の意識はなかったのです。物語の中のワンシーンぐらいでしかなかったのでしょう。彼女が特別な人だとは私には思えません。私も含めて、多くの日本人が彼女と同レベルの世界で生きているような気がします。
泣き言を書いても仕方がないので、私は少しでもリアルさを探すために、今から散歩に行こうと思います。雪のちらつく、だんだんお腹の空く、特にこれというアテのない、ぼんやりした散歩で、何が変わるわけではありませんが、せいぜい自分たちのまわりにある物と人に、何でもいいから関わって、私たちの何かを伝えて、お互いのリアルを高めてこようと思います。私はせっかくの日曜なのに、奥さんほったらかしでブログばかりしていて、本当に申し訳ないですし、部屋の片付けもしないと、もうすぐ資源ゴミの日だってやってきます。
こうして歳月を穏やかに過ごせるということはすばらしいことなのに、なかなか私たちはそれが理解できません。だれかがそんなことを口にしていても、適当に聞き流して、自分のことにはしていません。人は人、自分は自分で、自分はとりあえず前向き・上向き・向こう向きです。今ここにある自分では不満なので、もっともっと豊かで楽しい自分を追求するのです。
ああ、いつになったら私たちは穏やかな日々を過ごせるのやら、それはなかなか難しいです。
行動するジャーナリストさんは、自国の売り込みに忙しい政治家に振り回されて、テロ組織に殺されてしまいました。テニスの大会はオーストラリアで粛々と進められ、シャラポワさんは敗れ、錦織くんも敗れてしまった。日本がベストエイトで散ったアジアカップは地元のオーストラリアが優勝するし、世界の各地でスポーツイベントは続くでしょう。日本だって、サッカー・ラグビー・その他の大会やリーグが予定通り進むでしょう。
けれども、そんなスポーツよりも世界の紛争に踏み込む人たちもいて、紛争をさらに深める人たちもいます。たまたま私は関係なく過ごしていますが、どうして世界に紛争はなくならないのか、と思ったりします。
そして、今朝はその1人のジャーナリストさんの死の知らせで目が覚めました。だからどういうのではありませんが、とうとうその日が来てしまったというのが今の感想です。私にはどうにもできなかった。首相官邸前でアピールしても、政府にその気がないのだから、適当な時間稼ぎで期限が来るのは当たり前です。また、相手の組織も交渉の材料としてしか人の命を見られなくて、交渉に使えたらカネに換金して、使えなかったら殺すというだけで、とりあえず自分たちの恐ろしさを東洋の小国に少しだけ伝えられたでしよう。
次は、インドとか、ロシアとか、中国とか、新たなカモを見つけるまでです。ああ、こんな殺人地域があるなんて、こんな野蛮な地域は何とかしなきゃいけません。でも、これを助けているのはいったい誰なんでしょう。このテロ組織を消滅させて、解散させて、あたりに平和をもたらすにはどうしたらよいのでしょう。
だれか勇気ある人が、何も持たずに飛び込んでもダメですね。それを助ける誰かを止めなくてはいけない。私にはわかりませんけど、日本の人道支援がその力になるとも思えないので、とにかく、周辺の国々にテロ組織をつぶす努力をしてもらいたいです。
昨日、司馬遼太郎さんの『「昭和」という国家』(1999)というのを読んでいて、こんな文章に出会いました。
「これは戦争ではなかったな」
こう、二十二歳の西野青年(司馬さんの同級生の上官)が言ったのを覚えています。彼はプロとしての教育を受けてきてですね。戦争らしい戦争というようなものを、太平洋戦争の進行のなかで見たことがなかった。
つまり一方的にやられているわけであります。一方的にやられて、これは戦争らしい戦争じゃないと、実際二十二歳の青年でも敗戦のときにつぶやかざるを得なかった。そういうことを、昭和の日本国はやったわけですね。
戦争というのは、「やったりやられたり、いわば対等の競り合いであって」、日本が連合国に立ち向かったのは「戦争ではなかった」ということです。そんな戦争をどうして日本という国がやってしまったのか、それを歴史家であり、小説家でもあった司馬遼太郎さんが語っておられるのですが、司馬さんもどうしてなのかわからないと言っておられる。
でも、ヒントがあって、江戸時代までは多様性があった。それが明治の躍進を人と国全体で支えるベースになったけれど、それが日露戦争以後、一面的になって、最悪の戦争を引き起こしてしまった。これは特に軍部だけのしわざではなくて、社会全体がそうであったというのです。締め付けもあったかもしれないけれど、社会がそうだった。
では今は? 今も多様性があるように見えて、とても一面的なところがあって、たぶん自分から戦争を巻き起こす愚かなことはないだろうけれど、何か1つの価値観にとらわれてしまうところがあるのではないかと心配されていました。
国民の大多数は、ジャーナリストの死を悼むことでしょう。しかし、当たり前だ。殺されて当然だ。お母さんや奥さんの所にもあれこれ調べて苦情やいやがらせなど、それはどこからそんな情熱が起こるのかとおもわれるくらいのことをしてしまう人たちもいるでしょう。
これが多様性というわけではないですね。死を悼む気持ちに変わりはないのかもしれない。わからないイスラム国への不安感が、このようなおぞましい行動に出てしまうのでしょう。そうです。私たちは、あまりに世界を知らないし、知ろうとしていないのだと思います。そして、だからものすごく不安なのです。
江戸の人たちは、もっと地道に知ろうとし、海外には行けないけれど、懸命に勉強して何かを知ったでしょう。今の私たちは知ったような気になっていますが、実は何も知らない。だから不安だし、知らなくても適当に暮らしていけるから、知る必要はなくて、世界を知ろうと飛び込む人が目障りでしょうがないのです。
だから、過激な物言いになってしまう。私たちの社会は、ものすごく平板で、いい加減で、世界に飛び出ている人たちだけがリアルで、日本国内は何となく夢の国のような感じです。その夢の国の住人であるという自覚がなくて、ただめったやたら不安と不満がいっぱいなのが今の私たちです。
私たちは、(たぶん?)ぼんやりしていも90歳まで生きることができる。街にはものがあふれている。自由に好きなことが言える。人殺しだって趣味の範囲でやれてしまう。
現実を生きていないですね。目の前にいる人をオノでたたき殺しても、それを現実として受け入れられないし、クラスメートが突然目が見えなくなっても、特に罪の意識はなかったのです。物語の中のワンシーンぐらいでしかなかったのでしょう。彼女が特別な人だとは私には思えません。私も含めて、多くの日本人が彼女と同レベルの世界で生きているような気がします。
泣き言を書いても仕方がないので、私は少しでもリアルさを探すために、今から散歩に行こうと思います。雪のちらつく、だんだんお腹の空く、特にこれというアテのない、ぼんやりした散歩で、何が変わるわけではありませんが、せいぜい自分たちのまわりにある物と人に、何でもいいから関わって、私たちの何かを伝えて、お互いのリアルを高めてこようと思います。私はせっかくの日曜なのに、奥さんほったらかしでブログばかりしていて、本当に申し訳ないですし、部屋の片付けもしないと、もうすぐ資源ゴミの日だってやってきます。