ネットの切り貼りをなるべく最小限にして、当時の雰囲気を考えたいと思います。
定家さんのひ孫の京極為兼さんが六波羅探題へ連行されていきました。どういう罪があったのか? そこがイマイチわかりません。
為兼さんは京極家を継ぎ、幼少時から西園寺実兼(従一位・太政大臣)に仕えたそうです。歌人として頭角を現した為兼さんは弘安3(1280)年には東宮煕仁親王(後の伏見天皇)に出仕し、和歌の指導を担当することになります。この伏見天皇との出会いが為兼さんの人生を決定づけてしまいます。
東宮の信任を得た為兼さんはその側近となり、和歌だけでなく政治にも関与するようになっていきます。歌壇への影響力も大きくなっていき、彼を中心とするグループは「京極派」と呼ばれたということです。和歌を看板に出しながら、裏では鎌倉幕府とどういう関係作りをするか、そういうことを論じ合う政策集団ができたということなのかなあ。とにかく、為兼さんの作品は、それなりに新しかったそうです。
当時の皇室は、持明院統と大覚寺統に分裂していていわゆる「両統迭立」の状態にありました。朝廷内も2つの派閥ができ激しい権力闘争が存在したようです。緊張感があって一触即発だし、内部分裂もしています。これでは鎌倉幕府に対抗しようなんていうことはできません。
為兼さんは、西園寺実兼さんから伏見帝の側近に転進し、朝廷の中で生きていくことになりました。天皇は持明院統の出身でした。
政治の実権を握っていた鎌倉幕府は、両統の公平な帝位の交替の厳守を求めました。幕府としては、いつも相手の力が自分たちの管理下で動かせることを大事でした。
伏見帝は実子の胤仁親王(後の後伏見天皇)を立太子させると、大覚寺統との間に確執を生じます。幕府もこれには不快感を示したそうです。自分を通そうとする天皇様なんて、隠岐か土佐か讃岐か、どこかに島流ししなくてはいけない!
為兼さんは伏見帝の側近として飛ぶ鳥も落とす勢いになっていました。その権勢はかつての主君西園寺実兼さんをも凌ぐほどで、これが気に入らなかったかつての主人の実兼さんは持明院統側から大覚寺統側に鞍替えするという事態に至ります。為兼さんと伏見帝との関係は深くて、「君臣水魚」(二人とも水と魚の関係)と言われるほどだったそうです。誰かに恨まれるということは、いろんな不都合な情報も流されるということになるのかな。
権力を握るということは、幕府ににらまれ、ターゲットにされるのは当たり前です。為兼さんは1298(永仁6)年に佐渡島に配流となり、1303(嘉元元)年に帰京が許されるまで5年間の流人生活を送ります。これが一回目の島流しです。
復帰後は再び伏見上皇に仕え、1313(正和2)年には伏見上皇とともに出家するなど相変わらず信任は篤かったそうです。
1315(正和4)年12月28日、為兼は再び幕府の命によって捕えられ土佐国に配流されます。
この背景にはかつての主君実兼さんからの憎悪、伏見法皇の実子・後伏見上皇との不和などがあったと見られています。
また、幕府に目を付けられた伏見法皇の身代わりになったのではないかという話もあるそうです。為兼さんは再び流人となり、20年近い配流生活の末、帰京を許されないまま河内国で亡くなります。為兼さんは子どもさんはおらず、京極家および「京極派」は断絶して、彼の名は埋もれていったと言われています。
以上、切り貼りでした。
資朝さん、彼も権力に魅力を感じている人で、彼がどうして流罪になり、そちらで切られなければならなかったのか、その辺の事情を、私はイマイチわかっていません。でも、『徒然草』では、新しい時代というのか、鎌倉幕府の時代ではない、新しい政治体制を求める雰囲気を伝えようとしているのは確かです。
古き伝統を大事にした兼好さんだけど、世の中が何だか変わろうとしているみたい、というのは感じていた。彼は、東国にも行ってますし、関東の雰囲気も味わっていたでしょう。いつかこういう時代のこと、もう少し分かりやすい物語にだれかしてくれないかなと思ってます。
★ 1年以上かけて、やっと資朝さんのことを少し書けました。ちっとも研究は進んでないですね。ザンネン!