中学の頃、たまたま藤村の詩に出会い、何度も何度もノートに書きつけていました。その詩句をかみしめたかったみたいです。どうしてそんなことをしていたのか、それがアイデンティティごっこの始まりだったんでしょうか。それとも、ただの文学趣味だったのか。
「小諸なる古城のほとり」は後で知って、こちらの方が先に気に入り、今も、こちらの方がいい気がする。何がいいって、私のリズムに合う気がします。スンナリと藤村さんと千曲川の岸辺を歩いている気分になれます。
昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく)
明日をのみ思ひわづらふ
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪(あくせく)
明日をのみ思ひわづらふ
詩は人の心に引っかかることがあるのに、詩を好きになってくれた人が詩を書くかというと、たいていは書かなくて、ただ見たり聞いたりするだけです。そして、わざわざそんなものにお金をかけて見てみようという気持ちも起こらない。
だから、詩人は、詩を書いていたいのに、生活のために、何か他のことをしなくてはならない。そして、悪戦苦闘して世の中に生きる道を探ろうとする。
それにしても、この最初の四行、今思うと、達観した内容です。「昨日は、昨日なりの、いつものことがありました。今日もまた、今日なりの、いつものことがあるでしょう。」だなんて、あまりに日々を切り捨てすぎです。
本人の中では、別に切り捨てているのではなくて、そんな風に日々が前の日々と同じようでありながら、何かが違うようになっていて、でも、感覚としてはどれも同じようで、淡々と過ぎていくというのを、書いてみたんでしょう。中学生の時の私は、三行目の「この命をどうしてそんなにあくせくさせているんだろう。そんなにジタバタして何が始まるというのか。やたら、明日が気になって、ボクは、もがいている。」という内容にわりと共感しました。
確かにそうだ。毎日新鮮・日々新たなりという気持ちで生きていきたいのに、現実の自分は、何だか毎日が同じことの繰り返しに感じて、何か壁を突き破れないかなとこの言葉を掲げて、同じ毎日を突破しようなんて、考えていました。
いくたびか栄枯の夢の
消え残る谷に下(くだ)りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水巻き帰る
消え残る谷に下(くだ)りて
河波のいざよふ見れば
砂まじり水巻き帰る
私たちの日常は、少しまわりを見まして、その土地の歴史を考えてみれば、いろんな人たちが行き過ぎたことが分かってきます。普段はそれらを見ないようにして生きていて、改めて見たら、当然人々が生きてきたことを思い知らされ、そして、今も生きていることを感じてしまう。
人が生きるということは、栄枯盛衰をそこに生み出していくということでもあります。
人は飽きっぽいし、歴史に学ばないし、好きなことをするし、他人に興味なんて持たない。そこにどんなに教訓があったとしても、それはそれ、自分は自分として生きていく。そういう人間たちを、半ばあきらめつつ、自然は流れながら見つめるだけです。何度も同じ過ちを繰り返さないと、いや繰り返しても分からないところが人間たる所以(ゆえん)という気がします。
嗚呼(ああ)古城なにをか語り
岸の波なにをか答ふ
過(いに)し世を静かに思へ
百年(もゝとせ)もきのふのごとし
岸の波なにをか答ふ
過(いに)し世を静かに思へ
百年(もゝとせ)もきのふのごとし
三連目は、藤村さんの哀しみです。自然と歴史は、私たちのそばにあって、あれこれと教えてくれている。
けれども、人はそこに何も感じることはできなくて、ただ「明日のことばかり考えている」。自分たちはどこにあるのか、自然は何を教えてくれるのか、そんなことに関わっていない。
何かを伝えてくれている、それに耳を傾けたいのに、静かに物事を思うということができないし、いざゆったりした時間が持てたとしても、ここで休憩して、次はこれを片付けようと、次なる作戦を考えているでしょう。休んでいるのに、休んでいないのです。そう、まるでケータイで遊んでいる若者のように、とても静かで、ずっと同じ姿勢でいるのに、ゲームを楽しむように反射的な行動を行っているでしょう。
それらは、休息ではなくて、ただの奴隷行為なのに、何もしないで静かに思うということができません。もう、そんなムダなことはできなくなっている。
千曲川柳霞みて
春浅く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸に愁(うれひ)を繋(つな)ぐ
春浅く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて
この岸に愁(うれひ)を繋(つな)ぐ
藤村さんは孤独です。どんなに自然に帰れ。自分を見つめろ。川は流れているぞ。時間なんて、同じかもしれないけど、実は同じ時間なんてない。常に流れているのであり、私たちは同じところにとどまれないのだ。
今、川のそばでたたずんでいたとしても、しばらくしたら、何か違うことをしなくてはならなくて、川から離れて、何かをしているだろう。私たちは、そんなふうにジタバタすることでしか、自分を見つけられないし、頭をポカンとさせて、目の前のことに向かって行くだろう。何も学ばず、どこにあるかも知らず、ただ流されていくばかり。
それはそれでいい。そう藤村さんは思っているでしょう。でも、時々は、また川でも見に来いよ、と伝えている。
確かにそうかも。またいつか、私も川のそばに行こうと思います。川は何も教えてくれないでしょうけど、ここに来なければならなかった何かの存在を感じるだけでもいい。