いつものように、日曜は家にこもっていました。テレビをボンヤリ見ていました。BSの「駅ピアノ」という番組をまた見てしまっていた。前にも一部なのか、全部なのか、見たような気がしながら、神戸の西側の山の手の駅のピアノに集まる人々を見ていました。
わりとみんな常連さんばかりみたいで、みんながここでピアノに触れるのを楽しみにしているということでした。
駅にピアノを置くということは、それはおしゃれであり、そこで演奏できたら、それはカッコイイことです。でも、それを維持していくということは、お金のかかることでもあります。汚れるだろうし、みんなが触るし、きれいにしなくちゃいけないし、音の調整も必要になるでしょう。
そういう維持管理の大切さも知りつつ、あえて駅にピアノを置く。廃園になる幼稚園から寄付されたり、いろんな経緯があってそこにたどり着いたピアノは、少しずつ町の中にとけ込んでいくのだと思われます。
たぶん、常連さんの一人、全盲で車いすの女性が現れます。彼女はピアノを確認してみて、演奏を始めます。トントン跳ねるような音で、これは昔、NHKの朝ドラで使われていたAKBの「人生は紙ヒコーキ」なのだと、音楽に詳しくない私でも、どうにか知ることができました。
淡々と演奏して、最後のフレーズ「飛んで行け、飛んで行けー」と祈るようなとこまで来たら、演奏は終わります。
彼女が答えてたのか、字幕だったか、とにかく、音楽が好きで、ピアノも好き、気に入った曲は練習して、弾けるようにしているということでした。
ドラマか何かで知った曲を、彼女は自分のものにするためにどこかで練習をして、それをたまたま披露してくれて、それをたまたま私は見せてもらった。
「人生は紙ヒコーキ」という発想が気に入らなくて、「そうじゃないだろう!」と反発している私も、素直に受け入れて素直に演奏できるまでに至る彼女の姿を見ていると、私の変なこだわりもアホみたいで、紙ヒコーキだろうが、何だろうが、好きなものは突き詰めて、自分のものにして、また新しい好きなものが見つけられたら、またそれも自分のものにしていく。
そういう生き方だってある、それを紙ヒコーキと他人が言うのなら、それもいいし、いや、また違うものだと他人が評してもどっちだっていいし、とにかく、好きなものは好き。やりたいことはやりたい。いつも努力して、その成果は誰かいるのかいないのか、わからないけど、とにかく披露してみる。
そういう素直さ、素朴さ、それだけでいいんじゃないの、と思いました。
またひねくれて、「人生は簡単に語るものではない。人生とは何かにたとえられない」とかなんとか、えらそうなことを言ったって、何も始まらない。
とにかく、人がいて、その人の生き方はそこにある。それを誰かがどう言おうとも、そんなの関係ないのです。ですね。
私は、素直に生きているかな。誰かに披露できる自分の成果あるかな。今年の梅雨の温度差攻撃にやられている場合ではありませんでした。
誰かに面白がられる、楽しんでもらえる素直さ、持ててるかな。自問自答していきたいです。