いろいろなことを折に触れて弟子たちは質問します。あえて質問したり、ふと思いついて質問したりします。弟子たちは将来的には政治家として就職するか、実家に帰って著述業をめざすか、したんでしょうか。
いや、本を書いて売るという時代ではないから、やはり、政治家・王様のブレーンがめざすところだったんでしょうか。ということは、王様に気に入られなきゃいけないし、先生である孔子さんでさえ、うまく就職できていなかった。
ということは、政治家としても、うまく入り込むのは簡単ではなかったでしょうね。
ひょっとして、ただもう孔子先生の人間的魅力でみんな集まってきたのかもしれません。お金持ちの坊ちゃんもいただろうし、野心家の人もいたかもしれない。とにかく若い時の生き方が世に知られている先生のところへいろんなお弟子さんが集まってきます。
孔子先生も、ある程度資産があって、弟子たちが寝起きする空間を持ち、そこでいろんな教養・談義ができる空間は作り上げておられたんでしょう。有能な若者たちが集まり、みんなであれこれ試行錯誤している空間があった。
今の日本にもそういう空間はあるのかもしれませんけど、私みたいなものは参加できないだろうな。いや、探したらあるのかもしれないですけど……。
子貢さんが先生に質問しました。
彼は政治的センスを持ち、すでに自分の生活は築いていたと思われます。ただ、さらにステップアップすることを考え、自分の行き方みたいなのを考えていた。
生活は、そこそこにできている。ただ、自分だけではなく、世の中を動かすにはどうしたらいいのだろう。人間はいかにして生きていくべきなんだろう。そもそも人間とは何を求めて生きているんだ。
私は、先生の教えを受けてはいるけれど、それはテクニカルなことで、もっと人生全般にわたって、守り続けることはないのか、それを教えてもらいたい。人間は、何を求めて生きていくべきなのでしょう、先生。
そんな気分だったのか。
「一言にして終身これを行うべきものありや」
人生の最初から最後までずっとそれをやり続けるべきことってありますか、という漠然とした質問でした。
漠然とした質問ですね。私なら、「愛でしょう」と答えます。
自分の利益なんて、いくら求めたって仕方がないし、人間は、どんどん欲望は大きくなるようにできている生き物だし、利益やお金、生産性向上、生活力アップとか、上を向いたら切りがありません。
それよりは、まわりの人との穏やかで、ほどよい距離の結びつきみたいなのを築けたら、それが一番いいじゃないですか。だから、それをことばにすると「愛」なんじゃないかな。
孔子先生は違います。そんな漠然としたことは言われません。もっと具体的で、日々の生活の中に生かせるヒントをくださいました。
それは恕(じょ)、すなわち思いやり、「仁」ということかな。もっと具体的に言うと、
35【己(おの)れの( )せざる所人に施(ほどこ)すこと勿(なか)れ】……他人のいやな行為は、他人にとってもやはり同じで、いやなはずだから、気をつけて行動するべきだ。〈衛霊公〉
思いやりは大切です。自分が嫌なことは他人にしてはならない。人が嫌がることをいつの間にかしてしまうのが人間というものだから、それを気をつけなさい。
私たちは、日々独善の中にはまってしまうものなんです。だから、私は人のために、みんなのためにしているので、これでいいのです、なんていうのは詭弁です(「国民の皆様」を連発しているアイツはウソッパチです、とはおっしゃっていませんけど……)。
ただひたすら、「自分が嫌だと思うこと」はしない! この単純な基準を自分の中に当てはめてみなさい。
と、先生は言われています。それが簡単なことではなくて、ついつい人間は、「俺って、私って」というオレオレの自分が出てくるものです(これを自意識・わがまま・独善というのかな)。
だから、「自分が嫌だと思うこと」を、絶対に他人にしてはならないというものさしが大切になります。持ち運びできるものだし、それをどれだけ取り出せるかなんですけど、なかなか取り出せない。
★ 答え 35・欲(己の欲せざるところ人に施すなかれ!) なんですね。