今読んでいる本から孫引きしてみます。ちゃんと本を読んでないですね。反省しつつ、打ち込んでみます。
オールコックにとって、近代西欧文明がアジアの諸文明より「高度ですぐれたもの」であるのは、自明の事柄であった。だが、アジアに対して恩恵をもたらすべき高度な文明に対して、「コーチシナから日本にいたる極東において敵対的な力が作用している」のはなぜだろうか。そう問うて彼は「アジアがしばしば天上のものに霊感をもとめたのに反して、われわれが現世の物質的な目的のなかに這いつくばってきた」ことに、その原因を見出す。つまり、その敵対的な力は、「すべてのヨーロッパ民族の物質的な傾向にたいするアジアの根強い無言の抗議」なのである。
オールコックさんの『大君の都』という本からの引用だと思われます。
とにかく、いろんな外国の人たちが、幕末から明治にかけて日本を訪れ、そこで見たもの・感じたものを記録していました。それらをできうる限り読み漁り、当時の日本の人々が失ったもの、というのを探すというのが、今読んでる本のテーマだったのだと思われます。
幕末から明治、それにつづく近代から現代、私たちはそれを一つのつながりとして学ばされてきたように思うのです。そして、何度も何度もその時代の節目で生きてきた人々のドラマや小説を読み、当時の人々の魂が自分たちの中に息づいているような錯覚を、ずっと味わい続けています。
でも、それは疑似近代であり、本当の実状・様子を確かめない、ただのロマンティシズム、幻想である、というのはずっと感じてはいます。
とはいうものの、私はタイムスリップはできないし、何かの情報を得て、不確かであやふやのイメージを持つことしかできなくなっている。
まあ、それはすべての時代にもいえることで、飛鳥時代も、奈良時代も、平安、鎌倉も、ほとんど何も知らないまま、暗記させられた事柄がすべで、本当の人々の生き方なんて、何も知らないまま、知ったかぶりだけしてきました。
でも、幕末から近代にかけての日本というのは、ものずこい量の第三者の記録がありました。それをたどると、ひょっとしたら、何かが見えてくるかもしれないし、今の時代とは違う何かが見つけられるかもしれませんでした。
「アジアが安息と瞑想をその生活の最上の要素と考え、いっさいの変化と進歩に反する夢想的な安息を最高の幸福と考える」のに反して、ヨーロッパ人は「どうあってもいそいで前へ進もうとする」。このような西欧の進歩的文明と接触することによって、アジア人の「生活に不調和と混乱が生じ、この世の苦労が押しつけられ、自分がもっともよいと思うように生きる権利のために闘わなければならぬことになる。それは、彼らの性質と思考と存在のいっさいの習慣にとっていまわしいことなのだ」。
オールコックさんは、西欧文明とアジアの人々の暮らしというのが、根本も何から何まで違うということを感じておられたということでした。
西欧文明は、現実をどのように切り開き、いかに物質的に豊かで、技術革新をして、富を生み出すことを第一とする価値観を作り上げていました。キリスト教も保持していたけれど、それはオフの時に持ち出すものであり、普段の生活においては、物質と富と豊かさの追求をしていた。それはもう何百年も続けている西欧の考え方でしょう。
それで、アジアは? アジアは、物質のことより、何か他のことを考えているヤツらが多いし、ちっとも進歩をめざそうとしてないけど、どうしてなんだろう、という疑問があったそうで、それを見つけるために、オールコックさんの著述は続くようです。
でも、ボクは、引用とそれに対するコメントはこれくらいにして、もう少し読み進めて、ボクの理想とする、アジア的な空気の中の日本のイメージをふくらませてみようと思います。
ふくらみたい希望はもっているのに、それを具体化させるネタがありませんでした。もうしばらく読み進んだら、ネタが見つかるかも!