S・Sのお見舞い[1975・11・20]
S・Sは肺炎で病床に伏した。「クックー、クーハァハァ、ゼイゼイ」ため息まじり、苦しさまじり、もう一週間以上学校に来ていないってんで、みなさんノートを書いて、彼に手渡す。
彼は喜んだか喜ばざるか、知らず。ただ長江の天際に流るるを……。空は果てない。少女は美しい。はてなく続く……。自分でもわけのわからないことを、サラサラ書いていて、自分ながら驚いている。勉強も終わって、みなそれぞれ自分のことにいそしむ頃、われは君にむかひて何をか言はむ。
アホみたい。真面目に書く。
西九条に着いた。此花区は日本現代の最たる文化国家かといえば、さにあらず。T村(T区のこと)と変わらない。面白いというか、こわいというかは、女子高生がゾロゾロ歩いている。S・Sんちは澱江(でんこう・淀川)に近いそうな、よかもんだ。海の予感があの男を包んでいる。河口には船も行きます、よかもんだ。大正村は海はあるが、悲しいかな多少奥だから、海鳴りは聞こえてこなかった。
ザーッ、ツツツツツ、ザザーッ、工場の音、高電圧線は高く川を渡る。市営住宅が見えた。SくんとNくんがS・Sの自宅に向かい、Kくん・Iくん・Uくんとおいらの合わせて四人は、高い堤防を見かけると、いてもたてもいられず、堤防へ。海からの風は冷たい。ロマンチストの王子は、この現実に吹き飛ばされてしまった。ピューと軽いものだった。これを抑え込むのがいいのか、それとも同胞となるのがいいのか、どうもわからないまま日を送る。
視察団一行二人が帰ってきた。安治川口まで歩く。いろいろ歩いて話したり、工場の林立と住居の林立の混合。それがS・Sの住んでいるところだった。ガタンゴトン国鉄桜島線は今日も地べたを走っている。低硫黄重油がキレイに、鮮やかに見えた。
1年の11月ころ、S・Sという子が一週間以上も学校を休んだ。彼も海鳴り分子だった。肺炎とかだったと思うが入院はしていなかった。学校の勉強は一日欠席すればものすごく取り残された感じがしたものなので、それだけで大きな精神的負担があるだろうと推測された。休んでいた間のノートなどをみんなで作成して、それを届けるために彼の自宅へお見舞いに出かけたのだった。
現在はユニバーサル・スタジオ・ジャパンというテーマパークもできて、こぎれいな町へと変化させられているが、当時の此花区は、夕方だったせいもあるが、荒涼とした工場街という印象だった。つまり、自分の住むT区とあまり変わらない印象だった。知らない街を、6人のクラスメートが右往左往して彼の自宅を探して歩いたのは、心細いのに楽しい不思議な感覚で、どうぞこのまま楽しい時よ続いてください、と思ってしまう「小さな放課後の旅」のようなものだった。