五月五日、葵祭のプレイベント、上賀茂神社のくらべ馬を見る機会がありました。それはもうものすごいお客さんで、私の車の前にもいろんな人が並んでいたんです。肝心の馬たちの様子が見えませんでした。
「せっかく見に来たというのに、この人手では何にもならない。人を見に来たようなものじゃないか。まあ、それも仕方のないことか。見たければ、もっと早くからいい場所を取らなくてはなあ。」
「そうですよ。少し遅すぎましたかね。」
「まあいいや、人の観察でもしてみよう。馬はチラッとでも見られたらよしとしよう。この祭りの空気を味わうだけでよろしい。おや……?」
「木の上で見ている人がいますけど、危なっかしいですね。」
「あれは、栴檀(せんだん)の木かなあ。あんな木のまたのところで見ているらしい。眠っているようだね。うとうとしている。気持ちがよいのだろう。あっ、危ない!」
「落ちる瞬間に目が覚めるようです。おもしろいものですね。」
「頭から落ちたら大変なことになるだろう。ケガをせぬうちにしっかりと目覚めればよいものをなあ。どうしてそこまでして危険を冒すのか。」
「ああ、何というおバカなものがいるものだ。あんな高いところに腰かけて、のんきに昼寝なんかしているよ。きっと首の骨でも折って死んでしまうよ。どうしてそんなことをするかねえ。」
確かに危なっかしいのはみんな理解している。けれども、私たちはくらべ馬が見たい一心でここに集い、人がたくさん集まれば、出し物は見えにくくなり、自然に人というものを観察せざるを得なくなる。
そして、見れば見るほど人というのは、あぷなっかしくてやらずもがなのことをして、みんな他人のことは冷静に見つめることができるけれども、いざ自分のことになると、全くその危うさがわからない。まあ、それが人間というものさ。言うまでもないことだ。
だがしかし、人の生死というものを考えてみたらどうなる……?
「人の生き死にというものは、いつどこでやってくるか、それはわからないのだ。今すぐかもしれぬ。今すぐ、ここで死んでしまうかもしれないのだ。そういう人の危うさを顧みないで、のんきに競馬見物とは、愚かであることは木の上の居眠り男と変わらないさ。」
「そうですね。ご師匠さま。」
「ほんとに、そうでございます。私たちも負けず劣らず愚かでございますね。」
「そうですね。何をやっているんでしょう、私たちって!」
「くらべ馬どころではありません。自分の心配をしなくちゃ!」
「お坊様、おっしゃる通りです。よくぞ、お教えくださいました。ありがとうございます。」
「どうぞ、こちらでご覧になってください。私たちが愚かでございました。人よりいい景色を見ようと、他人そっちのけでのさばっておりました。申し訳ありませんでした。」
「どうぞ、こちらにお入りください。」
人々は見物席を空けてくれたのでした。ああ、どうしたものか。ふと口をついて出てしまった私の言葉が、これほどに人々に波紋を広げるなんて!
私が言ったようなことは、みんなが心当たりのあることなのです。けれども、たまたま場所が場所、人も人、空気も空気で、たまたま皆さんの心に触れることができたのでしょうか。
人というのは、木石(ぼくせき)ではありません。血の通った生き物であり、心というものをみんなが持っている。この心というものが、時には大きく響いて、いろんなものごとを開いていくようなのです。
5月の5日、たまたま私はこういう人の心が開かれていく場面に出くわして、少し驚いたのであります。
五月五日、賀茂(かも)の競べ馬(くらべうま)を見侍りしに、車の前に雑人(ぞうにん)立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒(らち)のきはに寄りたれど、殊に人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。
かかる折に、向ひなる楝(あうち)の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡りて(ねぶりて)、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。
これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ者かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしままに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「ここへ入らせ給え」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。
かほどの理(ことわり)、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。 ……41段
かかる折に、向ひなる楝(あうち)の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡りて(ねぶりて)、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。
これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ者かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしままに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「ここへ入らせ給え」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。
かほどの理(ことわり)、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。 ……41段