甘い生活 since2013

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明治政府の神社合祀のこと

2018年05月07日 22時28分59秒 | 草にうずもれて

 4月24日・火曜の朝日新聞に南方熊楠賞を受賞した櫻井治男先生(69)の記事が出ていました。

 先生の研究テーマは、「名もなき氏神を祀る小さな神社の歴史や住民との関係」を調べることだったそうです。特に「明治政府が国民の精神的統合を目的に進めた神社合祀(整理)の実情を明らかに」されたということでした。

 明治政府は、革命的ではありましたが、それは上からの革命であり、人々を管理することにそれはもう熱心でしたね。もとはといえば、国家の軍隊を持ち、各国に対抗し、西欧並みに植民地を持ち、そこから搾取するという大きな目標がありました。

 もちろん軍隊は、国民から徴用し、内容も方向性も同じようなものにする必要があった。そのためには思想統制だってなんだってしたのでしょう。すべての力を総動員して、人々を国家の方へ向けさせねばならなかった。


 「1村1社が原則の神社整理で三重県の神社は約6800社から約740へと激減。多様な信仰や文化が失われた」そうです。

 そうですね。明治以前は、日本のあちらこちらにいろんな神様がおられて、人々はあれもこれもとお祈りをしていたことでしょう。神社だけではなくて、たくさんのお寺だってあったはずでした。それも嵐があって、たくさんのお寺は失われてしまった。

 「だが丹念に調べると、社(やしろ)を失った村人が疫病など凶事が起きたと嘆きつつ、跡地に石を並べてひっそり祭りを続けたり、寺の祠(ほころ、ほこらとは読まないのかな?)を二重構造にして神体を隠したりした事例があった」そうです。

 お上がガミガミ統制しようとしても、人々のしたたかさもあったということでしょうか。

 「戦後、国家管理から自由になると、合祀で失われた氏神を集落に持ち帰り、神社を復興する動きが盛んにな」ったということでした。これを先生は「神社復祀(ふくし)」と名付けたそうです。

 そして、「政府方針にも納得せず自分たちのお宮を守り通すほど、人々には神との強い絆(きずな)があったんです」というふうなお話もされたということでした。


 ああ、国は下々を酷使するのは当たり前のことでした。末端の意見は切り捨てて、さも自分たち(為政者)は国民の皆様のことを考えていますよ、と口では言うのです。

 「私が拉致問題の司令塔です」なんて、どうしてあなたが言えるんでしょう。まともな神経では言えない言葉です。でも、言ってしまえるなんて、それは国家のえらいお方だから言えるんでしょう。えらいお方は言葉に責任はないからです。選挙の公約と一緒でたいていは空手形と決まっていて、まともにそれを信じている人なんかいないと思っている。

 というわけで、下々の者たちが好き勝手に地元の神様を信じてもらっては困ったのです。天皇を頂点とする近代的な中央集権体制を作らねばならなかった。

 だから、田舎のどうでもいい神社はすべて潰して、国家神道という形をイメージした。二千六百年は後の話ですが、そこへ向かって余計なものは排除して、すべてが天皇につながる形にシンプルにしようとした。

 その方が管理がしやすいからです。お寺もまどろっこしいものは廃墟にさせた。ものすごい宗教統制が行われ、形として明治国家が創成されていきました。

 私たちはその百五十年目にいます。今も統制しようという力はあると思われます。

 そういうものに負けないで、自分たちらしいものをしっかり確保していないと、簡単に私たちの生活って変えられてしまいます。他者にないがしろにされる前に、自分とは何か、自分たちの暮らしはどんなだったか、それらをしっかり守っていかなくてはならない。それが、改革・刷新を叫ぶエライお方たちへの対抗手段でもあるのでしょう。

 私の信ずるものは何? そうです。それが心配です。ニセモノぱすぐにわかります。でも、ホンモノがなかなか見つからないのです。私には、身のまわりにたくさんの神様はいますけど、実体がないですね。具象的なものはないですよ。



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