紀勢線をずっと南に下って那智まで行きました。往復8時間で少し移動に時間はかかったけれど、とにかく移動のお金はすでに払っているので、しっかり味わわねばと思い、時折腰を伸ばしたりしながら、どうにかこうにか往復してきました。
行くときの撮影スポットは、三瀬谷ダム・紀伊長島の海・尾鷲の海・新鹿海岸・熊野川などを目標に朝早く列車に乗ったというのに、うたたねもほとんどしないで、ひたすら乗っていました。もっと乗っている人たちと交流ができたらいいのですが、突然、「私は旅人なので、地元の皆さん交流しましょう」と話しかけても、みんないやがるだけだから、上原 和「回想の聖徳太子」という本を読んでいました。
本はなかなかおもしろかった。4分の1くらい読み進むことができたけれど、私はとにかく系図が頭に入らないんです。書いている人は、すべてを理解して書いているのでスラスラ話してくれるわけです。でも、読む方は簡単に理解できないから、系図を手にして読まなくてはならないのに、それが面倒で適当に読んでいるので、なかなか事情はわかりません。でも、著者の上原 和さんの戦争体験と聖徳太子を重ね合わせて書いていて、2つの話がリンクするのがおもしろかった。
太平洋戦争も、聖徳太子の時代も、たくさんの死があったというのです。そうした死を乗り越えて聖徳太子は生き、そして亡くなった。息子さんの山背大兄皇子(やましろのおおうのおうじ)は、本来なら天皇になることもできた。戦争に勝つこともできた。それくらい人気も勢力もあった。けれども、彼は父の教えに則り、戦わず一族皆殺しを受け入れた。なぜなら、「戦争を起こせば、たくさんの一般市民が犠牲になるから」という信じられない理由によって、蘇我のえみし・入鹿親子に命を投げ出すのでした。もっともっと聖徳太子さんの生涯を知らないといけない、と思いました。
さて、那智の駅に着いて、バスに乗ろうとしたのですが、待ち時間が1時間ほどありました。何度かクルマで走った道ではあるし、昔の人は歩いたのだから、歩く道もあるだろうと、例によってムヤミ・ヤミクモ歩きを始めました。山の向こうの滝がいつ見えるだろうと、ずっと山の中腹を向いて歩きました。川が流れているのですが、どうも護岸工事がズタズタでした。3年くらい前の台風被害が今も復旧されず、そのままに残っているらしい。もう少し整備された観光地へと向かう道だったはずなのに、ずっと歩いた何キロかは工事がつづいていました。
1時間ほど歩いたらバスの時間になり、バスに乗りましたが、もう満員で、今日は休みだったかと思うくらいの混雑でした。春休みでもあり、中高年の人たちは時間に余裕があるので、観光に来ているらしいのです。自分も休みをとって、ここに来ているわけで、みなさんと同じなんですが、もっとガラガラでいて欲しかったのに……。
そして、夢に見た那智の滝を拝むことになりました。前日の雨で水量は多く、音を立てて水が落ちてきます。水滴が飛んできて、マイナスイオンいっぱいです。桜も満開だし、空はどこまでも澄んでいて、悲しいほど静かでした(護岸の重機の音以外は)。那智大社と青岸渡寺にも参拝し、バスで再び那智に戻り、新宮に戻ると、1時間ほど待ち時間があって、西村伊作記念館・速玉大社も観光し、帰ったら19時でした。
月曜日なので、行くところ休みが多く、期待した温泉もお休みだし、うまくいかないことが多かったです。
私は、一遍にもなれないし、西行にもなれないし、ましてや聖徳太子にはなれません。けれども、せいぜい昔の人たちが愛した熊野の地を、これからは何度か訪れようと思います。昔、この辺りに住んでいたこともあるので、町の変化がいくつか気にはなりましたが、そりゃもう、仕方のないこともあるでしょう。新宮の駅構内に、立ち食いそばとか、めはりずしの店とか、そういうのがなくなっていたり、道は新しくなった感じだけれど、家々店々はさびれてしまってたり、いつも通りの輝きがあるのは、速玉大社であり、那智大社であり、飛瀧神社(ひろうじんじゃ)であったりしました。
ものすごく古いものは、多少の世の中の流れにも負けずに輝いている。少し小じゃれた建物はすぐに古びてしまう。ものすごく古い聖徳太子や西行さんに学ぼうと思います。
でも、自分はそんなに永遠に生きていけるわけではないので、せいぜい昔、父が会社の慰安旅行でこの瀧を前に(合成して)した写真撮ってたなあとか、ちょっとだけ古い、近過去の世界の声を聞きつつ、ものすごい遠過去のことでも思ってみましょう。