忙しさに流されていると、いろんなことを忘れてしまいます。大事なことも、どうでもいいことも、あれもこれも、どんどん脳細胞からこぼれていきます。それは仕方のないことではあります。こうした思い出を取り戻そうとしても、絶対に取り返せるものではありません。
簡単に「……を取り戻す」とかいう、わけのわからないキャンペーンがあったので、何でも望めば、みんながそれを同じように念じてくれて、何かそうなることが幸せなのかもしれないと、ついつい軽はずみに思うようになりました。キャンペーン・プロパガンダ・キャッチコピーの恐ろしさです。
「まあ、それもいいか」と、普段の生活においても流されているのに、世の中の流れに関しても、本来なら流れに竿をさして、ふみとどまって、「本当にこれでいいのか?」と、不服そうな、不機嫌そうな顔をしなくてはいけないのに、普段の生活も大きな世の中の流れも、私たちはどっちつかずで、流されていったあとで、「あれっ、これでよかったっけ」「もう1度、昔を取り戻したい」とか思ったりします。
何を書いているのでしょう? 私たちはたくさんの思い出を、おぼえているような顔をして、たくさん忘れていると言いたかったのです。そして、それは絶対に取り戻せません。ごく当たり前のことです。
昨日の旅は、20年くらい前に住んでいた三重県の南での生活を少しだけ思い出したわけです。高速道路も伸びたので、クルマで1時間少々で行けるかもしれません。これから、私はたぶん何年かに1回ごとに、フラッと訪れることはあるでしょう。でも、そこに住むわけではないですし、ましてや20年前に戻れるわけでもありません。
それなのに、昔住んでいた町を訪れると、急に昔に戻れるような錯覚が、やってくるのです。それはものすごい錯覚で、どうしようもなく過去にはもどれない。ただ若かった自分が、今はオッサンになって、何か昔に戻れるものを無性に探すのです。
新宮の町は、フォーマットは何も変わっていませんでした。でも、確実に何かが変わっていました。
「所も変(かは)らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかに一人二人なり。朝(あした)に死に、夕(ゆふべ)に生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。」
と、鴨長明が『方丈記』の冒頭で書いていたように、同じ町なのに、何かが決定的に違うのです。
それを嘆いても、仕方がないのです。ただ、それを受け入れ、季節の流れの中で、何かをやれたという実感さえあれば、それでいいのだと思います。
私たち家族は、三重県の南で生きていました。30代になったばかりでした。クルマの免許もなく、移動手段は公共交通機関だけでした。知る人はなく、家族3人だけで固まって生きていました。
妻が実家に用事があったとき、わざわざ私の両親は数時間掛けてこちらに来てくれたことがありました。松阪で待ち合わせて電車でトコトコこちらまで来てもらったりしました。
家族で電車とバスを利用して有名な瀞峡(どろきょう)にも行きました。それくらいものすごい暑い夏でした。どこか涼しいところに行きたかったのでした。河原でこどもは水の中に入り、それを私と妻は「よかったね。冷たいね」と見ていたのです。あまりに冷たかったのか、うちの子は、帰りの新宮駅でお腹がグルグルになって、駅のプラットホームの上でうんこをもらしてしまいました。駅員さんにホースを借りて、ホームの上のうちの子のうんこを一粒一粒流していき、きれいさっぱり下に打ち落としたのです。きれいにはなったけれど、初の夏の外出は、何とも言えない、ホンワカした夏の1日になったのでした。
そんなことを思い出させてくれる場所はあります。でも、駅員さんは違ってますし、自分も年を取ったし、町も年を取ったような感じでした。道路は新しく開かれたり、お店も知らない店ができても、町そのもの(特に地方都市)は、年を取った感じになっています。
そうした時間の流れを、改めて感じさせてもらった、と言えばいいだけのことですね。
新宮は、中上健次さんの生まれ故郷で、駅からすぐ近くのところに人権センターが平成7年(1995)にできていました。そこに今回初めて入ると、入り口に彼の年譜とか掲示してありましたが、もっともっと知らない場所はあると思いました。知ろうと思えば、人の数だけドラマはあるでしょう。でも、悲しいかな、接点がなかなか見つかりません。
もういいです。また、好きなときに行き、知りたいと思ったら、知る努力をします。とにかく、おかげで家族は大事と思えます。ああ、それなのに、ブログばかりして、奥さんに申し訳ない。子どもともっと話をしなくてはいけません。