私たちは、どれくらい泣き言を言いますか。どれだけ反省の弁を重ねますか。
もう数限りなく、未練たらたらで、しつこく、ねちっこく、いつまでも同じことを述べ立てるものです。
そりゃ、人間ですから、多少は反省や謝罪、後悔は口にするでしょう。でも、どうしてそうなる前に、それを避けるために対策を立てないのです。いや、たいてい、反省しなくていいように、私たちは、前もってあれこれ準備をしているのです。それが普通の人のあり方です。
だれかを責めてはいけない。すべて自分に責任があると、すべてを受け入れ、緊急事態に備えるようにしてきています。もう、みんながそういうのを当たり前にあれこれしています。
それでも、想定外のことは起きてしまいます。人間の知恵なんて、浅はかなものなんだから! そういうのが覆るのは当たり前と思っていたい。
そして、切り替えたいとき、こう言いましょう!
33【( )事は説(と)かず】……できてしまったことについては、とやかく言わない。
つづいて「遂事(すいじ)は諌(いさ)めず。既往(きおう)は咎(とが)めず」と先生は語っています。ありがたいなあ。〈八佾〉
お弟子さんの宰我(さいが)さんが、こじつけで勝手な発言をしたそうです。けれども、孔子さんは決して非難せずに、慎重かつ自省をこめて語ったと言われています。
どんな時に孔子先生は、こう述べられたんでしょう。
魯の哀公(あいこう)さんが宰我さんに、「社」とは何か? という質問をしたそうです。
「社」とは何でしょう。岩波文庫では「樹木を神体とする土地神のやしろ」とあります。
宰我さんは、「夏(か 王朝名)の君は松を使い、殷(いん 王朝名)の人は柏(ひのき)を使い、周の人は栗を使っています。周の栗(りつ)は社で行う死刑によって民衆を戦慄させるという意味でございます」と答えたそうです。
どういうことなんでしょう。哀公さんは何が知りたかったんでしょう。
地域ごとの土地管理・人民管理のもとになる「社」は、どのようにしていけばいいのか、その来歴や人々の信仰みたいなものについて意見や情報を得たかったんでしょうか。
人民は、どんなものを信じ、どうすれば人民を管理・統合できるか。そういうことのコメントを求めたのかもしれない。
人民というのは、どうしてそれぞれに土地神みたいなものを持っているのだ?
それが哀公さんのクエスチョンだったとしたら、それに対して宰我さんはちゃんと答えたんだろうか。
夏の王様は松を使っていました。次の王朝の殷では柏を使っていました(どうして「柏」が「ひのき」なんだろう?)。周の人は栗を使い、土地神のところで死刑を執行して、人民を戦慄させる、戦慄とは「栗」の木の心という意味でございます。なんてしたり顔で話したんでしょうか。
『経典釈文(きょうてんしゃくもん?)』に鄭注本では「主」とあるとみえ、それならば位牌のことと書いてあります。「位牌には何を使うんだ? どれが材料としていいんだ?」そんな疑問だったんでしょうか。何か違う気がします。
棺桶には何を使うか? そういう質問でもなさそうだし、やはり土地の神様の森(ほこらかな?)にはどんな木が植わっているんだ? そういう質問かな。
とにかく、人民たちの信じるものが知りたかった。
それを宰我さんは、ハッとひらめいたものがあった。人々がいがくりの心、とげとげ、ビクビクの心、すなわち慄然とする、戦慄の「慄」は栗の木の心だということを思いついた。あまりレベルの高いアイデアではない、おやじギャグのレベルです。それを、あろうことか、王様にシャーシヤーと話してしまった。
これは赤っ恥のエピソードです。こんなことを先生に知られたら、もう恥ずかしくてどこかに入りたくなるくらいです。本人も情けないと、後で反省したことでしょう。
でも、先生は弟子の失敗に対して、わりと優しいのです。
「できたことは言うまい。したことは注意するのはやめよう。過去はとがめまい」と言われたそうです。
そう言われたら、もう頭を下げて、自分の失敗をおわびするしかないです。そして、二度と知ったかぶりはしないように、誰にも素直なことばをささげようと覚悟することでしょう。
★ 答え 33・成(せいじはとかず!)