ついこの間まで「江南の春」を書いていたと思ったら、今は杜甫さんの「絶句」を書いているそうです。彼女の字を見せてもらって、三句めはどう読むんだろうと、少し困ったのですが、他はスッと出できました。「愈」を「いよいよ」と読めたり、「何日」を「いずれのひ」と読めたりするのは、高校時代にインプットされたものなんでしょうか。ひょっとしたら違うかもしれないけれど、ちゃんと憶えていました。
江 碧 鳥 愈 白 江は碧(みどり)にして 鳥は愈よ(いよい)よ白く
山 青 花 欲 然 山は青くして 花は然(も)えんと欲す
今 春 看 又 過 今春(こんしゅん)看(みすみ)す又(また)過ぐ
何 日 是 帰 年 何れ(いづれ)の日か、是(こ)れ帰年(きねん)ならん
私の持っている1978年5月に280円で買った岩波新書(中古ではありません。1977年の44刷です)では、このように読んでいます。
江(こう)は碧(みどり)にして鳥は逾(いよい)よ白く
山は青くして花は然(も)えんと欲(ほっ)す
今(こ)の春も看(ま)のあたりに又過(す)ぐ
何(なん)の日か是(こ)れ帰る年ぞ ……吉川幸次郎・三好達治著「新唐詩選」より
私は、ネットから取ってきた方になじみがあります。でも、どっちだっていいですね。
それにしても、すごいコントラストだなと思います。最初の二句があまりにストレートじゃないの、と思ったりします。でも、昔、この詩の「鳥いよいよ白く」というのは、白い鳥が見えたのかもしれないけれど、鳥の存在そのものを白いととらえたんじゃないの、と思って、鳥の鳴き声を色にたとえたら、「白」なのかなと思ったりして、なかなかおもしろい表現だなと、心に残りましたっけ……。
三句め、先ほどの岩波新書では、
万物は推移する。この自然の精力を、満幅に示す時間も、やがて次の季節へとうつりゆくであろう。さればいう、「今の春も看(ま)のあたりに又過ぎなんとす」。推移の感覚、それは常に中国の詩の根底にある。
と書いてありました。そして、最後に望郷の思いが述べられています。
この詩、いつの作とも、はっきりきめることはできない。四十八歳前後、妻子をひきつれて、放浪の旅に出てからのちの、ある晩春の日の作には、相違ない。題に絶句というのは、みじかうたの意である。うちこの詩のように、一句が五字ずつでできているのを、五言絶句といい、七字ずつのは、七言絶句という。
と、岩波新書では冒頭に紹介してくれていましたが、なかなか都の長安に帰してくれない、お仕事の配置転換での悩みが書いてありました。こうした悲喜こもごもは今も年度末にはありますね。
これを英訳すると、次のようなのがネットにありました。
Jueju, No. 2 of 2 (The River's Blue, The Bird a Perfect White) Du Fu(杜甫)
The river's blue, the bird a perfect white,
The mountain green with flowers about to blaze.
I've watched the spring pass away again,
When will I be able to return?
わりとそのまんまの訳で、私でもできそうです。今度何かチャレンジしたいですね。いや、唐詩を俳句にしてみるとか、そういうのをチャレンジしたらいいかもしれません。今度、やってみます。
最後に、岩波新書から抜き書きしておきます。
このみじかい詩の底には、中国の詩に有力な、二つの感情が流れている。ひとつは、さっきのべた推移の感覚である。推移する万物のひとつとして、人間の生命も、刻々と推移し、老いに近づいて行く。悲哀の詩はそこから生まれる。歓楽の詩もまたそこから生まれる。天地の推移は悠久であるのに反し、人間の生命は有限である。有限の時間の中を推移する生命は、その推移を重々しくせねばならぬ。推移を重々しくする道、それは推移の刻々を、充実した重量のある時間とすることである。歓楽はその道である。富、栄誉もまた、その道である。
もうひとつは、人間は不完全であるのに対し、自然は完全であるとする感情である。自然、ことに山川草木は、常に秩序と調和にみち、適当な行為を適当な時期に示し得る。春ともなれば、江は碧に、山は青く、花は然えつつ、そのエネルギーを充分に発散する。人間はそうはゆかない。
おのれは政治家として、おのれのエネルギーを、人々に対する善意として、はたらきかけたいのに、そののぞみはいつまでも達せられない。人間も自然の一物である以上、自然のごとく秩序と調和にみちた世界を作り得るはずである。
いな、人間は、自然のうちでも、最も能動的な、万物の霊長である以上、秩序と調和とを、自然の本来以上におしすすめ得るはずである。しかし実際は、そうはゆかない。能動的であるだけに、そうはゆかない。秩序と調和の源泉でありその典型である自然。その自然の選手たる地位を与えられながら、秩序と調和を失いがちな人間。両者はかくて阻隔する。この阻隔に対する悲しみ、それはひとり杜甫の詩のみならず、中国の詩のおおむねの奥を流れる普遍な感情の、また一つである。
この自然と人間とのギャップ。自然であるはずの人間が自然に生きられない。それを「両者は阻隔する」と書いてあるんでしょうね。そうです。人間は自然からはかけ離れていて、春なのに花粉に苦しみ、春なのに(だから?)家にとじこもりがちです。そういう下世話は阻隔じゃないですね。もっと哲学的な「阻隔」かな。
山の青いのはもうすぐ感じられますが、「江は碧にして」は、長良川とか、木曽川とか、熊野川とか、大河の河口を鉄橋の上から見るときに少しだけ感じられるあの感覚ですね。週末どこか行かなくては! 18キップも買いに行かなくちゃ!
江 碧 鳥 愈 白 江は碧(みどり)にして 鳥は愈よ(いよい)よ白く
山 青 花 欲 然 山は青くして 花は然(も)えんと欲す
今 春 看 又 過 今春(こんしゅん)看(みすみ)す又(また)過ぐ
何 日 是 帰 年 何れ(いづれ)の日か、是(こ)れ帰年(きねん)ならん
私の持っている1978年5月に280円で買った岩波新書(中古ではありません。1977年の44刷です)では、このように読んでいます。
江(こう)は碧(みどり)にして鳥は逾(いよい)よ白く
山は青くして花は然(も)えんと欲(ほっ)す
今(こ)の春も看(ま)のあたりに又過(す)ぐ
何(なん)の日か是(こ)れ帰る年ぞ ……吉川幸次郎・三好達治著「新唐詩選」より
私は、ネットから取ってきた方になじみがあります。でも、どっちだっていいですね。
それにしても、すごいコントラストだなと思います。最初の二句があまりにストレートじゃないの、と思ったりします。でも、昔、この詩の「鳥いよいよ白く」というのは、白い鳥が見えたのかもしれないけれど、鳥の存在そのものを白いととらえたんじゃないの、と思って、鳥の鳴き声を色にたとえたら、「白」なのかなと思ったりして、なかなかおもしろい表現だなと、心に残りましたっけ……。
三句め、先ほどの岩波新書では、
万物は推移する。この自然の精力を、満幅に示す時間も、やがて次の季節へとうつりゆくであろう。さればいう、「今の春も看(ま)のあたりに又過ぎなんとす」。推移の感覚、それは常に中国の詩の根底にある。
と書いてありました。そして、最後に望郷の思いが述べられています。
この詩、いつの作とも、はっきりきめることはできない。四十八歳前後、妻子をひきつれて、放浪の旅に出てからのちの、ある晩春の日の作には、相違ない。題に絶句というのは、みじかうたの意である。うちこの詩のように、一句が五字ずつでできているのを、五言絶句といい、七字ずつのは、七言絶句という。
と、岩波新書では冒頭に紹介してくれていましたが、なかなか都の長安に帰してくれない、お仕事の配置転換での悩みが書いてありました。こうした悲喜こもごもは今も年度末にはありますね。
これを英訳すると、次のようなのがネットにありました。
Jueju, No. 2 of 2 (The River's Blue, The Bird a Perfect White) Du Fu(杜甫)
The river's blue, the bird a perfect white,
The mountain green with flowers about to blaze.
I've watched the spring pass away again,
When will I be able to return?
わりとそのまんまの訳で、私でもできそうです。今度何かチャレンジしたいですね。いや、唐詩を俳句にしてみるとか、そういうのをチャレンジしたらいいかもしれません。今度、やってみます。
最後に、岩波新書から抜き書きしておきます。
このみじかい詩の底には、中国の詩に有力な、二つの感情が流れている。ひとつは、さっきのべた推移の感覚である。推移する万物のひとつとして、人間の生命も、刻々と推移し、老いに近づいて行く。悲哀の詩はそこから生まれる。歓楽の詩もまたそこから生まれる。天地の推移は悠久であるのに反し、人間の生命は有限である。有限の時間の中を推移する生命は、その推移を重々しくせねばならぬ。推移を重々しくする道、それは推移の刻々を、充実した重量のある時間とすることである。歓楽はその道である。富、栄誉もまた、その道である。
もうひとつは、人間は不完全であるのに対し、自然は完全であるとする感情である。自然、ことに山川草木は、常に秩序と調和にみち、適当な行為を適当な時期に示し得る。春ともなれば、江は碧に、山は青く、花は然えつつ、そのエネルギーを充分に発散する。人間はそうはゆかない。
おのれは政治家として、おのれのエネルギーを、人々に対する善意として、はたらきかけたいのに、そののぞみはいつまでも達せられない。人間も自然の一物である以上、自然のごとく秩序と調和にみちた世界を作り得るはずである。
いな、人間は、自然のうちでも、最も能動的な、万物の霊長である以上、秩序と調和とを、自然の本来以上におしすすめ得るはずである。しかし実際は、そうはゆかない。能動的であるだけに、そうはゆかない。秩序と調和の源泉でありその典型である自然。その自然の選手たる地位を与えられながら、秩序と調和を失いがちな人間。両者はかくて阻隔する。この阻隔に対する悲しみ、それはひとり杜甫の詩のみならず、中国の詩のおおむねの奥を流れる普遍な感情の、また一つである。
この自然と人間とのギャップ。自然であるはずの人間が自然に生きられない。それを「両者は阻隔する」と書いてあるんでしょうね。そうです。人間は自然からはかけ離れていて、春なのに花粉に苦しみ、春なのに(だから?)家にとじこもりがちです。そういう下世話は阻隔じゃないですね。もっと哲学的な「阻隔」かな。
山の青いのはもうすぐ感じられますが、「江は碧にして」は、長良川とか、木曽川とか、熊野川とか、大河の河口を鉄橋の上から見るときに少しだけ感じられるあの感覚ですね。週末どこか行かなくては! 18キップも買いに行かなくちゃ!