久しぶりに中国の歴史と言葉です。計略家の蘇秦さんが、韓の国へ行き、宣恵王(せんけいおう)へ政策を提言するときに使ったたとえ《史記・蘇秦列伝》です。本当に久しぶりの「歴史と言葉」で、忘れてましたね! 私の本拠地なのに!
86【鶏口( )後】……巨大な組織の中で汲々としているよりも、小さな集団のリーダーとなる方がよい。
誰しもそう思うのではないかと思ったり、いやいや世の中は「寄らば大樹の陰」だから、大きな組織の方が楽だ、ということもあるでしょうか。人の価値観はいろいろですね。
言葉の時代背景はどんなだったでしょう?
中国の戦国時代の最強国である秦の国の人々が、周辺諸国を軍事力で脅して、秦に領土を割譲せよ、と迫っていました。
洛陽の人で、蘇秦という人がいました。 蘇秦さんはかつて政治家になるための就職活動で、秦の恵王さんの前でプレゼン演説を行いましたが、採用してもらえませんでした。 仕方がないので、他国をまわり、燕の国の文侯さんに自説を演説して、趙(ちょう)と同盟を結ばせようとしました。王様によって好まれる話す内容を変えたはずで、それは遊説家としては当たり前のことながら、大したものです。
燕の文侯さんは趙との同盟案に賛同し、自国の使者として、蘇秦に旅費などの費用を与え、趙に行かせます。蘇秦さんが、趙の粛侯さんに説得して言った内容は、
「秦以外の諸侯が力を合わせたとすると、兵の数は秦の十倍です。諸国が力を合わえて西の秦に対抗すれば、秦は必ず敗れるでしょう。王様のための計画を考えますと、秦以外の六国(燕・趙・斉・魏・韓・楚)が協力して秦を追い払う以外に秦の脅威に立ち向かう策はありません。」
趙の粛侯さんはこの同盟案に賛同します。そして、新たに蘇秦さんに旅費などを与え、使者として諸国に同盟を結ばせに行かせます。たどり着いたところは、秦と国境を接する韓の国で、そこで話の流れとしてタテのつながりを強調する「合従(がっしょう)」の同盟が結ばれていくのでした。
蘇秦、鄙諺(ひげん)を以て諸侯に説きて曰はく、 「寧(むし)ろ〇口となるとも、牛後(ぎゅうご)と為(な)るなかれ。」と。
さあ、正解は、「鶏口となるとも牛後となることなかれ」、「鶏口牛後(けいこうぎゅうご)」です。
牛のお尻の反対がニワトリの頭でしたか。いい対比ですね。それにしても中国ではみんなが知っていることわざであったなんて、知恵も積もればことわざになるというところかな。蘇秦さんが作り出したことわざではないようです。
六国、北から燕(今の北京あたり)、斉(今の天津あたりでしょうか)、その東の趙、秦の東側の韓・魏、南の楚これらの国が縦に同盟します。それを崩そうと秦から横(連衡)の懐柔戦略があって、二つ合わせて「合従連衡」は複雑に入り乱れる力関係を表わす言葉になりました。
二千数百年経った私たちは、今でも入り乱れた力関係をこの言葉でとらえていますね。
また『史記』をちびちび読むしかないかな……。