もう盛りは過ぎています、という注釈つきではあったけれど、盛りの時に来られなかったのは自分のせいだし、まあ、今こうしてここにお参りしてるんだから、盛りは過ぎてても見せてもらおうと中に入りました。
結城宗広さんという方がいました。建武の親政の頃です。元弘三年・1333年に大塔宮さんの令旨(りょうじ)をもらって、新田義貞さんと一緒に鎌倉幕府を攻め滅ぼしたそうです。その時は65歳だったそうです。
そんな人がどうして戦いに出たのかというと、福島の白河城主だったので、その力も借りて幕府を倒したかったのでしょう。一つの勢力ではあったのかもしれません。
後醍醐天皇さまの直接政治が始まると、宗広さんは故郷へ錦を飾って凱旋した。
それから三年、延元元年・1336年に足利尊氏さんが再び京都を占領し、後醍醐天皇さまたちは吉野へのがれます。そして、南北朝の時代に入るわけですが、宗広さんは北畠顕家さんと一緒に西へ向かいます。
はるばる東北から船団を組織してどこをめざしてたんだろう。三河か、尾張か、伊勢の国だったのか、それが途中の遠州灘で遭難して、伊勢の国の津の浜辺で亡くなってしまったそうです。海で船は壊れて、難破したのが津の海だったでしょうか。
それで、藤堂藩の高次さんが、三百年前の忠義の人のお墓をお社にしようと、寛永九年・1632年に八幡神社と宗広さんをおまつりするところとを合わせて神社にしたということです。武家ですから、八幡宮も京都から来てもらったということでした。
社殿の横に小さなしだれ梅の公園があって、梅の咲くころにはたくさんのお参りの人たちが訪れるようになったそうです。
私は、二回目のお参りということになるのかな。
確かに、ピークは過ぎてたかもしれないけど、それなりにキレイでした。
前に来たときは、メジロの群れが大騒ぎしていたんですが、今回は群れというほどではありませんでした。
みんな静かに梅の花をかじっているようでした。
甘いんだろうな。少しずつをあちらこちらからもらって、少しずつ味わっているところが控えめでかわいらしい。
まあ、ひいき目かもしれません。小さなトリは何をしててもかわいらしいんです。
もう梅よりも、メジロのかわいらしさにスマホの女性たち、大きなカメラを構えた人たちみんながバジャバシャ撮っていました。それは何だか野次馬になった気分で、自分がイヤになってしまっても、そんなの吹っ飛ばすくらいだった。
うちでもメジロはやってきてくれるけれど、それなりの舞台に立つとメジロも引き立つようでした。
1 しだれ梅恐怖の山風花粉入り
2 メジロたち追っかけカメラ数知れず
3 時を経て忠徳慕うやしだれ梅