「夜の太鼓」から、いくつか抜き書きさせてもらいます。
夏の日、梅の木肌に手を置いて「また来年の花に会わせてください」とささやいた、私の願いを聞き届けてくれたのは誰でしょう。春は来るのではない、生きてこちらが春に到達するのだという感じ方は、残念ながら年のせいかもわかりません。
梅の花が咲いて、そこから季節がめぐることを書いておられて、いつからか、時間の過ぎるのを、どうにかそこまでたどり着けたと感じるようになった、というのを書いておられました。その視点が新鮮でした。
戦争(フォークランド紛争)は本当に片付いたのだろうか。大きな戦争の種が、地球上のどこかに用意され、進行していて、「紛争」というかたちで、チラリその一部をのぞかせたのでなければいいが。
見世物小屋の外で、お小遣いを握りしめて立ち尽くしていた子どものように、私には見きわめのつかない世界の状勢に目を見張るばかりである。いのちひとつを握りしめて。
もう二十年以上前のことを書いておられて、どういうことなのか、イギリスとアルゼンチンが紛争をしていた。こうして世界中にいろんなタネはあって、2019年の今ももちろん各地にある、というのを感じます。何も変わっていない。同じことの繰り返しです。人が変わるだけです。
私にはずいぶん、ニセモノをホンモノと思い込んできた過去がある。それが私の小さな歴史である。
現に、平和のためと説明されて、戦争の方に高いお金を支払わされているかどうかもわからない。
そうです。私たちは、真贋をなかなか見分けられないし、真実はたいていは隠されているわけで、ニセモノをつかまされていること、たくさんあると思います。
人工衛星のいくつかは、もっと大きな、疑い深い目を、青く美しいという地球に注いでいるのでしょうか。
私たちは、防犯カメラに埋め尽くされた生活をしている。1948年にジョージ・オーウェルさんが予測した未来にとっくになっています。未来というわりに、薄汚くてみみっちい社会だけど、とにかくそこに生きている。
そうした目は、地上だけではなくて、宇宙から地球にも向けられている。壮大な防犯カメラシステムです。びっくりするくらい。
春になると羽ばたいてまもない雀の、たいして大きさの違わない親鳥に餌を口移しで食べさせてもらっている姿が見られる。足元に餌があるというのに、甘えるな、と叱りたくなるけれど、いや、あれは親になったらお前もこうするのですよ、と教え、教えられているのかもしれない、と考えるようになった。生まれるものがあれば死んでいくのもいるはずなのに、雀はどう身の始末をしているのだろう。私が知りたいのはその辺の事である。
生まれてくるヒナはいろんな場面で目にするのに、死んでいく親というのはなかなか見るチャンスがありません。そこで、スズメはどんなふうこの世からいなくなるのか、というのが気になったというお話でした。