私たちは、「日本」という国に住んでますけど、好きで生まれてきたわけではありません。たまたまそこに生まれ、たまたまそこで年を取ってきました。
可能性があったら、世界を股にかけて生活する、というのもいいでしょう。せっかくこの世に生まれてきたんだから、いろいろな可能性を試すのは人間のいいところです。
そもそも人間というのは、本当に落ち着きのない生き物ですから、じっと同じところに住み続ける人もいるけど、たいていの人は何十年もそこに住んでいるというのはめったにありません。
ということは、住んでる国というのも、仮住まいみたいなものでしょう。とはいうものの、私たちは言語にも縛られるから、いろんな言語が話せたら、コスモポリタンになれるかもしれないけど、たいていは母国語の国にいる。それが安心だし、そういうものなんでしょう。
という訳で、網野善彦さんの「国」ですね! 「日本の歴史をよみなおす」(1991)からの抜粋です。
これ(「日本」という国号)は王朝名ではないし、王朝を建てた人の部族名でもありません。フランスやプロシャ、ドイツは部族名だと思いますが、イングランドのような地名でもありません。中国の王朝名は、元・明・清は別として、王朝の出身地名だと聞いておりますが、日本という国号はそうした地名でもない。
日本というのが、私たちの国の名前ですけど、私たちは「にほん」と読み、「ニッポン」とも言ったりする。気分で使い分けてるかもしれないけど、アルファベットは中国語よみの「リーペン」というのが、ジャパンになったんでしょうか。
これを「ひのもと」と読むとすれば、日の出るところ、つまり東の方向ということになります。この国号については、古くからその意味、読み方等々について議論があってわからないことが多いのですが、「日本」の文字からはなれて「やまと」と読んだとすれば王朝の出身地名になります。しかし、「やまと」には別の文字があるわけで、それではこの「日本」という文字を使った意味がわからなくなります。結局、中国大陸から見て日の出る東の方向、ということになる。
私たちは、自分たちの国をその最初の時点で、何といっていいのかわからなかったんですね。聖徳太子さんのころは、自分たちを規定する呼び名がないから、仕方なしに「日いづるところの国」みたいな漠然とした言い方しかできなかったんです。アイデンティティがなかったんですね。
自分を指さしてみて、「わたし」、そして、ここは東から太陽が昇るところ、みたいな漠然とした言い方しかできなかった。それがもう千何百年もそのままということになってるんですね。
つまり、まず中国大陸の帝国を強く意識した国号であり、列島の社会に根強く、現在まで生きている太陽信仰を基盤に、太陽神の子孫という神話を持つ、「日の御子」天皇の支配する国を示すものとしてつけられたのだと思います。ですから、この国号は当時の東アジアの中でも特異な国号と考えざるを得ないわけです。しかし「日本」――「ひのもと」は東をさすことばですから、時代とともに動いていくのです。[中略]
そう、私たちは「民族」なのか、「部族」なのか、「地域」なのか、私たちのルーツは何なのか。それはいつも曖昧なままで、今もボンヤリしている。決して単一民族ではないし、いろんなルーツのある人々が、たまたま日本語を使ってこの島国で生きてるだけなんだとは思います。
実は、いろんな言語はあったのだけれど、少しずつ滅ぼされていったのですね。まるで、巨大な中国みたいに。
この国号は、畿内を中心にできた律令国家の国号だったのですから、北海道や東北、さらに沖縄、南九州は「日本」の中にはいっていません。関東をふくむ東日本の人びともはたして「日本人」と見られていたかどうか、「東夷(あずまえびす)」ということばを考えれば疑問です。中世にはいってようやく東北・関東も「日本国」にはいったと見られますし、別の「日本」――「ひのもと」もあったのですから、日本列島の地域によって、日本、さらに天皇に対する意識は非常に異なると考えなくてはなりません。
この国号は、畿内を中心にできた律令国家の国号だったのですから、北海道や東北、さらに沖縄、南九州は「日本」の中にはいっていません。関東をふくむ東日本の人びともはたして「日本人」と見られていたかどうか、「東夷(あずまえびす)」ということばを考えれば疑問です。中世にはいってようやく東北・関東も「日本国」にはいったと見られますし、別の「日本」――「ひのもと」もあったのですから、日本列島の地域によって、日本、さらに天皇に対する意識は非常に異なると考えなくてはなりません。
この島国に天皇制度が作られ、定着化して一応千数百年ということになっていますけど、これも一つではなくて、いろんな危機があり、一族の中でも争いがあり、たとえば、現在の天皇家もあるにはあるわけですが、明治国家としては後醍醐天皇をあんなにクローズアップしたんですけど、実は今の皇室は北朝方であって、後醍醐天皇は対立するグループの人でした。
そんな細かいことを言わないでいいから、とにかく、明治政府としては天皇親政、天皇を中心の国家という形にしたいと、そのモデルを歴史の中から拾ってきたわけでした。
天武天皇だって、持ち上げたって、実は天武系は奈良時代の終わりで途絶えて、対立していた天智天皇系が天皇家を継いだり、もうご都合主義で、形としていてくれたらいいという、為政者の都合みたいなのがありました。
その天智天皇の系統のカムバック天皇が桓武天皇でしたね。
そしてその出発点において、日本という国号と天皇の称号とは深く結びついていたわけですから、将来、いつかは天皇が日本の社会にとって不要になる時期が来ると思いますが、その時には、われわれは、日本という国号そのものをそのままつづけて用いるかどうかを、かならず考え直すことになると思います。「日本」という国号がそういう歴史を現実に持っていることを十分に考えておく必要があると思います。
いつか将来というのは、数十年後というんじゃなくて、何百年という流れの中で、天皇家がなくなるときがあるかもしれないという、歴史家の未来予想でした。というか、歴史をみたら、そういうふうに発展していくこともあるかもしれないな、ということでした。
私はいま、「令和」という時代にありますが、次の時代までは行けると思うけど、次の次は無理だろうな。まあ、そんな先のことなんか、私には関係ないんですけどね。