もともとイラチ(細かなことでイライラしてしまうという関西弁?)で、すぐに気が変わる、移り気な私です。
なのに、いざ始まってしまうと、なかなかそれをやめられない、まあ、これは誰もがそうで、今までやってきたことをすべて投げ出すのはなかなか大変です。私はそのうえグータラで、面倒くさがりだから、ずっとそのまんまというのがよくあります。
思い出すのは、引っ越した後の、前のおうちに火災保険をかけたままで、どれくらいお金を払ったのか、日本有数のグータラで、貧乏なことばかりしています。もう少しテキパキ何でも事務的なこととか、書類関係のこともちゃんとできたらいいのに、書類を前にするとバタリと意識も体も倒れてしまいます。
というんで、ご愛用していた二千円時計の電池が切れて、使えなくなってから、もう一年以上時計なしの生活をしています。
時々不安になって、まわりの人に「今は何時?」と尋ねることはあります。でも、それ以外は、時計がなくてもそんなに困らずやって来ました。
いや、まわりの人に迷惑をかけ、いつもどこかに時計はないかと見まわし、何となく落ち着かなかったのも確かでした。
私には、時間というものがだいたいは関係なくなっていた。
それでちゃんと社会人としてやれてたの? と訊かれたら、少し自信がありません。何だかいい加減に過ごして、まわりに合わせなきゃとドキドキする部分がありました。
それから、ふと誰かが自分の時計を見る姿がカッコイイなあと思う瞬間があって、自分もそんなカッコイイ大人になりたいと考えて、時計なし生活から抜け出すことにしました。
高校生になる時だか、中学生になる時、たぶん、高校生だと思われますが、叔母からSEIKOの自動巻き時計を贈られました。少しだけゆるい感じだったんだけど、これまたそのうち腕に馴染むだろうと、ずっとそのままのゆるさでずっと何十年かをともに過ごしました。重かったけれど、それだけ実在感もあるし、昔は時計なんて手でゆするものなのだとしっかり刷り込まれていました。
電池の時計の時代が来て、何だかイヤだなと思っていたら、いつの間にか自動巻きの腕を振る時計はなくなってしまっていました。
そのころから、外国製とか、ブランド時計とか、やたら高いものを欲しがる人々も目にすることができました。「これ??万円やぞ」と自慢する人たちがいても、私は全く興味がなくて、成金趣味とも思わなくて、「どうして自分で時を刻む(腕を振るのは時を切り裂くみたいな感覚……といっても自己満足でしかありませんけど)ことをしないのだろう」と人生の一つの疑問にもなりました。
そういうものが欲しい人がいる、という私の人生勉強の1ページだったのですね。お金があると(お金がなくても)、何か高価なものを人は欲しがるようなのです。
無敵の自動巻き時計を身につけ、20代も、30代もずっと当たり前に暮らしていたと思います。
それが、何かのイベントだったか、その時に大事な自動巻き時計をなくして、なくしたことも気づかずに、大事な時計と離れ離れになってしまいます。
そこからは、最愛の時計を失った私は、いい加減な気持ちで時計というものと付き合い、千円の時計はうちにいくつもあるし、電池は時間が来ると止まるし、電池を変えてもらおうと思うと、もとの時計よりも高いお金が必要だったり、何だか浮ついた関係しか作れていませんでした。
奮発して買った二千円の時計も、電池が切れ、ネジがもがれてしまうし、それからは何もなしでした。
それで、またも奮発して、二万円くらいのデンマーク製(?)の時計を通販で買いました。
今日はデビューして一日目、どこにも連れ出してなくて、ずっと家で飾っていました。明日から、外へ連れ出すかもしれないけど、もともと私は帽子はかぶるけど、時計はつけないオッサンだったから、どれだけ自分の生活に時計ちゃんが入ってくれるのか、それを楽しみに過ごしていきたいと思います。