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景山民夫さんは、ウィキペディアで調べてみると、なかなか立派なご先祖様がおられるようです。だから、あれやこれやとチャレンジしたり、海外に出かけたり、大活躍をされた人でした。
アメリカから帰国したら、すぐに放送業界に入られて、放送作家として活躍して、そこから小説の世界へ入り、たくさんの小説を書かれたようです。エッセイも出しておられて、うちにも何冊かありましたし、そのうちの1部があります。
山藤章二さんとの共著「食わせろ!!」(なんと講談社文庫で1990)と「極楽TV」(新潮文庫 1990)の2冊が残っています。小説とか、その他の本もありましたが、すべて売り飛ばしてしまった。いっぺんにキライになってしまった時があったんですね。……今、少しだけ見直しています。
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それで、たまたまこの前、「スターティング・オーバー」(中公文庫 1996)を買って、読んでみたら、なかなか示唆的なことが書いてあって、私はすこぶる納得しています。
こんな人をどうして世の中は切り捨ててしまったのか(私も含めて)、と考えていて、このエッセイは、1991年に週刊朝日かに連載されていたものを単行本にしたもので、その中で雑誌「フライデー」との対決が書かれています。イマイチ当時の事情がわからなかったりしたのが、連載がすすむうちに、親会社の講談社ともうまくいかなくなり、さらに取材されたのが景山さんの宗教活動に関する集まりでのことで、それで景山さんの活動が公表されてしまうのです。
有名な人で、自分の宗教を公表している人もいるでしようけど、宗教は本来は個人的なもので、あまり取り上げてもらいたくない、最もプライベートな部分だと思います。それを「フライデー」はかぎつけて、特に意味があるとは思えないけど、何かの作為でもっておもしろおかしく載せてしまった。
講談社さんは、今は良識ある会社だと思うし、私なんか逆立ちしても、二百年ゴハンを食べないで頑張っても入れない会社だけど、当時の「フライデー」取材班は、とにかく何でもいいから有名人の変な場面を抑えることに躍起になっていた。そして、どんな記事なのかわからないけれど、景山さんと宗教の場面を記事にしてしまった。
そして、私たち愚かな読者は、あの有名な、活躍中の景山民夫さんは宗教の活動もしているらしいと、突然変な色メガネを用意して、あの人が何を言ってても、どうせ宗教の何かなんだろうと、全く関係がないのに、自分から遠ざかっていき、おもしろいと思っていた自分を封印して、景山さんとの楽しい時間も抹消してしまった。
それから何年後かに、景山さんが亡くなっても、特に何も思わないで、死んでしまったんだね。若いのにね。変な亡くなり方だなと、軽く流してしまっていた。
それで十数年が経過して、たまたま読んでみれば、それはもう現代にあてはまることがいっぱい書かれていたのです。景山さんは本文でも、霊的な力があると書いておられて、今までそういう経験もしてきて、だからこそ何かに頼りたい部分もあったので、宗教活動もされていた。
それなのに、読者の私は、突然に毛嫌いするようになり、遠ざけてしまった。
宗教に関してもこう書かれていました。
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その写真週刊誌の記事が、信仰というものに対してあまりにも無知であり理解度が低い、ということだ。自分の信仰の対象を汚されることに関して、日本人は戦後の四十六年で、鈍感になりすぎてしまったのではないか。信仰ということ、神や仏を信ずるということを揶揄の対象としてしか考えないような風潮は、一部の化石のごとき共産党支配の国を除けば、世界中で日本にしか例を見ることはできぬといっても過言ではないと思う。
タイで仏教寺院の仏像にスプレーをかければどういうことになるか、スペインで教会のキリスト像や十字架に唾を吐きかけることがどんな結果を生むのか、いや、日本ですら、よそ者がその地域での信仰の対象となっている地蔵に小便をかければ無事にその村を出ることはできまい。
信仰の仮の対象である偶像に対してすら、そうなのだ。ましてや、仏神の言葉を伝える者としての信仰の対象となっている生身の人間の尊厳を踏みにじる行為が、一体どれほどの心の傷を信仰者に与えるのかを、K社の方々はお考えになったのであろうか。
あまりに無頓着すぎたのですね。デリカシーがなかったのです。有名人なんだから、どんなふうに報道されてもそれは有名税として受け入れるべきだ、という変な感覚をフライデーも、その読者の私たちも持っていたのでしょう。そして、フライデーは消滅し、講談社はなんとなく低迷している。
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景山さんは、あれこれ活動を続け、裁判も四年ほどして高裁で勝って三十万ほど名誉毀損でもらったらしい。その間の時間と労力はそんなお金では何にも成らなかったろう。そんなめんどくさいのはイヤだから、有名人の人たちは泣き寝入りするのに、そこをあえて景山さんは敢然と戦った。真面目な人だったのです。
ただ、皮肉な運命のいたずらで突然に亡くなってしまう。……私は、こうした裁判沙汰がなかったら、もっと景山さんは自由に活動して、変なストレスもなかっただろうから、もっと長生きできたのではないかと思うのです。
人は、どこでどうなるものかわからないけれど、今さらながらザンネンでしようがないです。
アメリカから帰国したら、すぐに放送業界に入られて、放送作家として活躍して、そこから小説の世界へ入り、たくさんの小説を書かれたようです。エッセイも出しておられて、うちにも何冊かありましたし、そのうちの1部があります。
山藤章二さんとの共著「食わせろ!!」(なんと講談社文庫で1990)と「極楽TV」(新潮文庫 1990)の2冊が残っています。小説とか、その他の本もありましたが、すべて売り飛ばしてしまった。いっぺんにキライになってしまった時があったんですね。……今、少しだけ見直しています。
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それで、たまたまこの前、「スターティング・オーバー」(中公文庫 1996)を買って、読んでみたら、なかなか示唆的なことが書いてあって、私はすこぶる納得しています。
こんな人をどうして世の中は切り捨ててしまったのか(私も含めて)、と考えていて、このエッセイは、1991年に週刊朝日かに連載されていたものを単行本にしたもので、その中で雑誌「フライデー」との対決が書かれています。イマイチ当時の事情がわからなかったりしたのが、連載がすすむうちに、親会社の講談社ともうまくいかなくなり、さらに取材されたのが景山さんの宗教活動に関する集まりでのことで、それで景山さんの活動が公表されてしまうのです。
有名な人で、自分の宗教を公表している人もいるでしようけど、宗教は本来は個人的なもので、あまり取り上げてもらいたくない、最もプライベートな部分だと思います。それを「フライデー」はかぎつけて、特に意味があるとは思えないけど、何かの作為でもっておもしろおかしく載せてしまった。
講談社さんは、今は良識ある会社だと思うし、私なんか逆立ちしても、二百年ゴハンを食べないで頑張っても入れない会社だけど、当時の「フライデー」取材班は、とにかく何でもいいから有名人の変な場面を抑えることに躍起になっていた。そして、どんな記事なのかわからないけれど、景山さんと宗教の場面を記事にしてしまった。
そして、私たち愚かな読者は、あの有名な、活躍中の景山民夫さんは宗教の活動もしているらしいと、突然変な色メガネを用意して、あの人が何を言ってても、どうせ宗教の何かなんだろうと、全く関係がないのに、自分から遠ざかっていき、おもしろいと思っていた自分を封印して、景山さんとの楽しい時間も抹消してしまった。
それから何年後かに、景山さんが亡くなっても、特に何も思わないで、死んでしまったんだね。若いのにね。変な亡くなり方だなと、軽く流してしまっていた。
それで十数年が経過して、たまたま読んでみれば、それはもう現代にあてはまることがいっぱい書かれていたのです。景山さんは本文でも、霊的な力があると書いておられて、今までそういう経験もしてきて、だからこそ何かに頼りたい部分もあったので、宗教活動もされていた。
それなのに、読者の私は、突然に毛嫌いするようになり、遠ざけてしまった。
宗教に関してもこう書かれていました。
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その写真週刊誌の記事が、信仰というものに対してあまりにも無知であり理解度が低い、ということだ。自分の信仰の対象を汚されることに関して、日本人は戦後の四十六年で、鈍感になりすぎてしまったのではないか。信仰ということ、神や仏を信ずるということを揶揄の対象としてしか考えないような風潮は、一部の化石のごとき共産党支配の国を除けば、世界中で日本にしか例を見ることはできぬといっても過言ではないと思う。
タイで仏教寺院の仏像にスプレーをかければどういうことになるか、スペインで教会のキリスト像や十字架に唾を吐きかけることがどんな結果を生むのか、いや、日本ですら、よそ者がその地域での信仰の対象となっている地蔵に小便をかければ無事にその村を出ることはできまい。
信仰の仮の対象である偶像に対してすら、そうなのだ。ましてや、仏神の言葉を伝える者としての信仰の対象となっている生身の人間の尊厳を踏みにじる行為が、一体どれほどの心の傷を信仰者に与えるのかを、K社の方々はお考えになったのであろうか。
あまりに無頓着すぎたのですね。デリカシーがなかったのです。有名人なんだから、どんなふうに報道されてもそれは有名税として受け入れるべきだ、という変な感覚をフライデーも、その読者の私たちも持っていたのでしょう。そして、フライデーは消滅し、講談社はなんとなく低迷している。
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景山さんは、あれこれ活動を続け、裁判も四年ほどして高裁で勝って三十万ほど名誉毀損でもらったらしい。その間の時間と労力はそんなお金では何にも成らなかったろう。そんなめんどくさいのはイヤだから、有名人の人たちは泣き寝入りするのに、そこをあえて景山さんは敢然と戦った。真面目な人だったのです。
ただ、皮肉な運命のいたずらで突然に亡くなってしまう。……私は、こうした裁判沙汰がなかったら、もっと景山さんは自由に活動して、変なストレスもなかっただろうから、もっと長生きできたのではないかと思うのです。
人は、どこでどうなるものかわからないけれど、今さらながらザンネンでしようがないです。