Kは高校まで自転車に乗れなかった。それにはいろいろと事情があったのである。
Kは、学校のプールには中学1年まで入らなかった。おそらく、水泳パンツになるのが恥ずかしかったのだろう。何という自意識過剰! でも、若い頃って、たいていそんなものなんだろう。本人はものすごく恥ずかしい思いで胸が押しつぶされそうなのに、まわりの人は実は全く無関心。けれども、本人だけは、「すね毛を見られるのが恥ずかしい」とか、「母のいいつけをしっかり守らなくちゃ」とか、変な言い訳を重ねていた。
運動はほとんどすべてダメ。球技は自分では華麗にプレーしているはずなのに、なぜかまわりの人をイライラさせてしまう。自然に団体競技はやらなくなってしまった。小学校6年までは草野球ではスラッガーのつもりだったのに……。
個人で行う体操なども変な動きをしていたようだし、俊敏な動きからは最も遠い人間で、これはオッサンになった今も全く同じだ。しかし、オッサンは自分が運動センスがないというのをちゃんと意識しておれば、なんとかやっていけるものらしい。
Kは、中学校に入学した最初の一週間ほど陸上部に入った。この時には毎日遅くまで練習をした記憶があるが、なにせ一週間で辞めてしまったので、まともにクラブ活動をやったと誇れるものではない。以降全く、ちゃんとしたクラブ活動をしたことがなかった。
そんなわけだから、みんなが当たり前に自転車に乗っていても、運動神経が鈍いからといいわけをして乗ろうとしなかった。そのうちに小学校高学年の弟が自転車を乗り回すようになった。父とも一緒に練習したり、兄を誘ったりもしたようだ。弟はあちらこちらに遠征を始めて、弟の世界を格段に広げていた。それなのに兄は、自分には関係のないことで済ましていた。
たしかこのころ「木枯らし紋次郎」(1972年)というテレビドラマがあって、「あっしには関わりのねえことでござんす」という有名なセリフがあった。長い楊枝をくわえることも少しだけガキンコたちの間で流行ったりした。無関心を粧い、そのまま自分の都合の悪いのをやりすごすこと。こんなつまらない習慣を、少しずつ身につけていった。
Kが高校に合格して、長い春休みを迎えていた。ポッカリとすることがなくなって、ちょうど国鉄のストが唐突に解除されて、寝台特急のキップをうまく一つだけ手に入れることができた。といっても、一度兄弟だけで旅をさせてみようという親心だったのだろう。父がわざわざ駅まで出向いて買って来てくれたものである。父母は兄弟をふるさとカゴシマへの旅に送ってくれたのである。
当時の国鉄のストというのは絶大な権力だった。だれがなんといおうと電車は動かない強固なもので、もしそれがあるとすれば、人々は暗澹たる気持ちで嵐の過ぎるのを待つ、というような感じで、スト様の行方を見守ったものだ。その「スト」が突然解除されたのだから、それはチャンスだったのである。そんなことでもないかぎり、長期休暇中に寝台特急のキップを取るというのは、ひどく難しいことであった。
兄弟だけでの初の旅行、その往きの寝台列車は、Kらにはドキドキするような冒険心と旅心をくすぐる何かで包まれていただろう。狭い寝台の中で小五の弟と中学を卒業したばかり彼は、真っ暗な外と時折現れる都市風景を一つ一つ記憶するように見ていた。列車と平行して流れていく車の灯り、何度かめぐってくるお城のシルエット、ぼんやりとした山の陰、こうした車窓風景の記憶はキラキラしているのだが、カゴシマへ着いてからはあまりたいしたことはできなかったようだ。
ただ、ほんの一瞬だけ、春の日ざしを浴びて兄弟が輝いていたシーンがある。それがKの自転車に乗るための猛特訓の場面である。
親戚の人たちは仕事へでかけてしまった。ヒマなのは大阪から来た兄弟だけ。親戚のみなさんは「適当に遊べ」と言うけれど、カゴシマはテレビのチャンネルが4つしかなくて、しかも電波状況もあまりよくない。それに子ども向けの番組もやっていない。何もすることがないのである。
仕方なくて、Kたち兄弟は、そこらにある自転車を引っ張り出してきて、公民館前の空き地で自転車の特訓をすることになった。というのか、積極的で交際上手の弟に彼が引っ張り出されたような流れであった。荷台を支える弟と不安そうな兄。彼がとことこペダルをこぎ、ハンドルでバランスをとり、前に進む訓練をする。彼にはそれがとても難しい微妙で、根気のいる、神業のように思えた。とてもできそうになく、何度もやめようと提案をする。しかし、弟は許さなかった。
できてしまえば何でもないことなのに、できない人には地獄の責め苦。理不尽で腹立たしく、もどかしい受け身の時間がつづく。それがフッと「自分の時間」に変わる瞬間が突然訪れて、しかもほんの一瞬のことで、当事者としても何が何だかわからないひとときがやってきた。とにかく弟のおかげでKは、自分が主体的に行動するための道具を手に入れることができたのだった。
Kは高校になって急に自転車に乗れるようになった。初心者ではあるので予想外のところで転倒し、だれかが見てるとドッと冷や汗をかいた。しかし、そんなことにはめげずに遠乗りにでかけ、近所なのに今まで通ったことのない道を走るようになった。一つ世界が広がったというべきなのだろう。かくしてKの高校への旅立ちが始まった! 1975年の春のことだった。
自転車で走った十メートルの春
Kは、学校のプールには中学1年まで入らなかった。おそらく、水泳パンツになるのが恥ずかしかったのだろう。何という自意識過剰! でも、若い頃って、たいていそんなものなんだろう。本人はものすごく恥ずかしい思いで胸が押しつぶされそうなのに、まわりの人は実は全く無関心。けれども、本人だけは、「すね毛を見られるのが恥ずかしい」とか、「母のいいつけをしっかり守らなくちゃ」とか、変な言い訳を重ねていた。
運動はほとんどすべてダメ。球技は自分では華麗にプレーしているはずなのに、なぜかまわりの人をイライラさせてしまう。自然に団体競技はやらなくなってしまった。小学校6年までは草野球ではスラッガーのつもりだったのに……。
個人で行う体操なども変な動きをしていたようだし、俊敏な動きからは最も遠い人間で、これはオッサンになった今も全く同じだ。しかし、オッサンは自分が運動センスがないというのをちゃんと意識しておれば、なんとかやっていけるものらしい。
Kは、中学校に入学した最初の一週間ほど陸上部に入った。この時には毎日遅くまで練習をした記憶があるが、なにせ一週間で辞めてしまったので、まともにクラブ活動をやったと誇れるものではない。以降全く、ちゃんとしたクラブ活動をしたことがなかった。
そんなわけだから、みんなが当たり前に自転車に乗っていても、運動神経が鈍いからといいわけをして乗ろうとしなかった。そのうちに小学校高学年の弟が自転車を乗り回すようになった。父とも一緒に練習したり、兄を誘ったりもしたようだ。弟はあちらこちらに遠征を始めて、弟の世界を格段に広げていた。それなのに兄は、自分には関係のないことで済ましていた。
たしかこのころ「木枯らし紋次郎」(1972年)というテレビドラマがあって、「あっしには関わりのねえことでござんす」という有名なセリフがあった。長い楊枝をくわえることも少しだけガキンコたちの間で流行ったりした。無関心を粧い、そのまま自分の都合の悪いのをやりすごすこと。こんなつまらない習慣を、少しずつ身につけていった。
Kが高校に合格して、長い春休みを迎えていた。ポッカリとすることがなくなって、ちょうど国鉄のストが唐突に解除されて、寝台特急のキップをうまく一つだけ手に入れることができた。といっても、一度兄弟だけで旅をさせてみようという親心だったのだろう。父がわざわざ駅まで出向いて買って来てくれたものである。父母は兄弟をふるさとカゴシマへの旅に送ってくれたのである。
当時の国鉄のストというのは絶大な権力だった。だれがなんといおうと電車は動かない強固なもので、もしそれがあるとすれば、人々は暗澹たる気持ちで嵐の過ぎるのを待つ、というような感じで、スト様の行方を見守ったものだ。その「スト」が突然解除されたのだから、それはチャンスだったのである。そんなことでもないかぎり、長期休暇中に寝台特急のキップを取るというのは、ひどく難しいことであった。
兄弟だけでの初の旅行、その往きの寝台列車は、Kらにはドキドキするような冒険心と旅心をくすぐる何かで包まれていただろう。狭い寝台の中で小五の弟と中学を卒業したばかり彼は、真っ暗な外と時折現れる都市風景を一つ一つ記憶するように見ていた。列車と平行して流れていく車の灯り、何度かめぐってくるお城のシルエット、ぼんやりとした山の陰、こうした車窓風景の記憶はキラキラしているのだが、カゴシマへ着いてからはあまりたいしたことはできなかったようだ。
ただ、ほんの一瞬だけ、春の日ざしを浴びて兄弟が輝いていたシーンがある。それがKの自転車に乗るための猛特訓の場面である。
親戚の人たちは仕事へでかけてしまった。ヒマなのは大阪から来た兄弟だけ。親戚のみなさんは「適当に遊べ」と言うけれど、カゴシマはテレビのチャンネルが4つしかなくて、しかも電波状況もあまりよくない。それに子ども向けの番組もやっていない。何もすることがないのである。
仕方なくて、Kたち兄弟は、そこらにある自転車を引っ張り出してきて、公民館前の空き地で自転車の特訓をすることになった。というのか、積極的で交際上手の弟に彼が引っ張り出されたような流れであった。荷台を支える弟と不安そうな兄。彼がとことこペダルをこぎ、ハンドルでバランスをとり、前に進む訓練をする。彼にはそれがとても難しい微妙で、根気のいる、神業のように思えた。とてもできそうになく、何度もやめようと提案をする。しかし、弟は許さなかった。
できてしまえば何でもないことなのに、できない人には地獄の責め苦。理不尽で腹立たしく、もどかしい受け身の時間がつづく。それがフッと「自分の時間」に変わる瞬間が突然訪れて、しかもほんの一瞬のことで、当事者としても何が何だかわからないひとときがやってきた。とにかく弟のおかげでKは、自分が主体的に行動するための道具を手に入れることができたのだった。
Kは高校になって急に自転車に乗れるようになった。初心者ではあるので予想外のところで転倒し、だれかが見てるとドッと冷や汗をかいた。しかし、そんなことにはめげずに遠乗りにでかけ、近所なのに今まで通ったことのない道を走るようになった。一つ世界が広がったというべきなのだろう。かくしてKの高校への旅立ちが始まった! 1975年の春のことだった。
自転車で走った十メートルの春