何十年も中也の「汚れちまった」は無視してきました。チラッと読んでみたら、何となくとっかかりが開いている気がしました。でも、ダメかもしれない。
なんてったって、私には才能ないのですから、下手の横好きです。
汚れつちまつた悲しみに……
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
たったの四連の詩です。「悲しみ」が汚れてしまったそうです。どうしたんだろう。
私は、なんとなく世の中に合わそうとしていた彼の姿を想像します。
すると、彼は、「いかん、こんなんじゃダメだ。私はもっと別次元のことを考えていたはずだ。なのに、つまらない日常に追われている。自分の求めていたものから遠ざかり、つまらない日常にあくせくしている。
私の過去の気持ちは、もう私の中にはなくて、今の私は、つまらない大人になりさがっている。ああ、私の悲憤慷慨はどこへ行った。うすら笑いをしている私は、もうかつての怒り。悲しみをなくしている。ああ……」
何だか焦っている作者を想像します。そこへ大雪じゃなくて、「どうしたんだい、お前さん」と私を呼ぶような雪が降る。「おまえはそれで満足なのかい」と訊ねるような風が吹くのです。さあ、中也さんはどうします? 泣き叫びますか。恋人と一緒に過ごしますか。それとも、愛人でも作って、どこかで遊んでみますか。
昔の、すごい人って、いろんな人を愛せたり、いろんなところを旅したり、融通無碍な生活を送っているようにみえる人も多いから、中也さんもそうだったんだろうか。わりとハンサムだから、もてたんだろうな。うらやましいです。いつも帽子かぶっているけど、あなたは若ハゲ? 何言ってんだよ、失礼な。あれもファッションなのさ。女の子に持てるには、それなりに飾り羽みたいなのが必要なのさ。トリと同じだよ。
汚れつちまつた悲しみは
たとえば狐(きつね)の革裘(かわごろも)
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる
理想や夢を無くした詩人なんて、たとえてみれば、キツネのコートみたいなものだ。コートじゃなくて、えりまきでも同じだ。もうそれはキツネではないんだ。ただの人間のファッションの道具なのだ。野原を走ることもないし、ぼんやりと人間にこきつかわれる道具になってしまうのだ。
夢も希望もないから、あちらこちらで小突かれ、叩かれ、打ちのめされるんだ。そして、生気を失って小さくなるしかないんだ。
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む
単なる自殺願望みたいな、あまっちょろいものではありません。希望や夢はありません。ただぼんやりと生きているだけで、自分が何をしたいのか、過去に思い描いていたものを忘れてしまい、ただ今しかなくなった人間どもは、ただ今さえよければよくて、特に強い理想もなく、ただメシが食えることしか望みを持たない。
そうしたメシを食うことしか頭の中にない生き物は、感情も失い、無気力で、日々の生活に疲れていて、いつかこの単調な日々が終わったら、つまり、自分がこの世からいなくなったら、すべては解決されるだろうなどと甘い夢を見たりするものです。
でも、そんなことは起こりえないし、いつまでも淡々とした日常が続くばかりですよ。どうしたらいいんです。もう一度、自分の最初のころに抱いた挫折感・苦しみを思い出すことです。それが自分の原点だから、そこをスタートにして生きるしかないんだ。
死なんて、答えじゃないのに、何も解決しないのに、そうすれば、すべてが楽になると、いい加減な夢を見るものなのだ。バカらしいことだ。原点を思い出してみろ。
汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……
私たちの日常はどんどん私たちの都合などお構いなしで、どんどん過ぎていくものさ。それを嘆いてもしかたがない。それを恐れて何もしないのはもっといけない。
どうせ、忘れん坊の、いい加減野郎の、優柔不断の、理想を無くした私どもなんだから、ふんぞりかえって生きていくしかない。
居直りこそ、私たちの新しい力です。今日、夕方になるのなら、明日こそ、私は私、人は人として、もう一度自分を振り返り、私は何がしたかったのか。私はどういうふうに生きたかったのか、それを振り返って、新たな道を探るしかない。
また明日、自分の道をどこにあるのか、探してみようぜ。
だいたい、そんなことを言っているというふうに解釈しました。中也さん、間違っていると思うけど、許してね。また、ヒマなときに読んでみます。
声に出したら、私は声がよくないけど、リズムがあって、なんかいい感じの詩ですね。