さあ、みなさんも神様が見えるかもしれないので、ありがたくご覧ください。というのは、ウソで、そんな気がしただけです。私に、そんなすごいことなんて、できるわけがありません。
1992年ごろ、というとついこの間という気がしますが、考えてみれば23年前なので、昔と言えば昔ですけど、そのころ新しい県道ができて、この鳥居が作られたということです。クルマで走っていると、すぐここに神様がおられますよ、というのがわかるのに、その神様の森がどこなのか、ずっと気になっていて、何年か前の秋に、初めてお参りすることができて、やっと神様のおられるところにお参りすることができました。
とはいうものの、それからもずっと神様のおそばに行くことはめったになくて、いつもスミマセンと素通りするばかりで、申し訳ないと思っていました。それで、この麦があと少しで収穫間近の先週、お参りしてきました。
麦畑の浮かぶ鳥居は、なんともありがたい感じです。けれども、そこからしばらく山の方へ行かないと、神様を拝むことができないのです。
ご祭神はアマテラスさま、スサノオさま、スクナヒコナさま他の7つの神様がおられるようです。それで、1911の明治44年に、区内の小祠(しょうし)を合祀(ごうし)したということです。
どういうわけか、明治政府は神社の整理統合をしたらしいです。市町村の合併も無理矢理にさせたことがつい最近ありましたが、あれは効率やら、税金の都合のよう使い方とかいう建前で推し進められましたけど、この神社の整理にはどんな意味があったのでしようね。政府による国民の宗教政策だったんでしょうか。小さい祠はどんどん統合して、ただの石・ただの木・ただの石にしてしまって、余計なものは拝ませないことにして、余計な物を見せないで、すべてを天皇様へと目を向けさせたのかもしれません。そういう政策の意図があったんじゃないかな。
だから、邪魔なというか、その怖さを知っていた仏教を弾圧した。おかけで国内のお寺は荒廃し、つぶれたところは数知れずです。カゴシマなんて、まともなお寺はどこにもみつからない、ただ祠と、自然石としかない、仏教不毛の地にさせられてしまってますが、すべて明治政府の宗教政策だったのです。
たぶん、今ならお寺もあるはずですけど、お寺らしい建築物はありません。すべて家々に吸い込まれるような形で存在している。それが仏教にはなんとも申し訳なく、明治政府の負の遺産は今もカゴシマには続いています。
みなさん、カゴシマのお寺って、全くイメージできないでしょ。というか、私だってまともな鹿児島のお寺に行ったことがありません。すべて歴史から抹殺されたのだと私は思っています。恐ろしいことです。
しおりから、御由緒(ごゆいしょ)を抜き書きしてみます。
往昔(おうせき)、家城村(いえきむら)の住人・家城与左衛門(よざえもん)の息子で円乗坊(えんじょうぼう)という高僧あり珍徳上人(ちんとくしょうにん)という。上人、諸国の神社を参拝し、加賀の国一の宮、白山権現に詣で大麻を受けて故郷の老母の顔を見んとて帰国、家城の近く雲出川(くもずがわ)瀬戸ケ淵の岸で路傍の石に笈(おいずる)をおろし暫(しば)し疲れをいやしていた時、
笈(おいずる)の中から7羽の白鳥が飛び立ち、小倭郷(おやまとごう)、竹原、飯福田(いぶた)、山田野、八対野(はったいの)、川口、家城のの7カ所に羽を休めたという。のち、この7カ所に珍徳上人が祠(ほこら)を建て、白山比神社(しらやまひめじんじゃ)加賀白山の御分霊として奉斎(ほうさい)したのが始まりと伝えられている。
この狛犬さんは、平成14年ということで、新しい狛犬さんではありますが、なんと当時百いくつのおばあさんがおられて、その長寿の記念にお供えしたものだということです。なかなかかわいらしいコマイヌさんで、インパクトがあります。
本殿は、三角の建物の下に朱塗りのおごそかな建物があるのですが、雨ざらしにしておくと、それはもう傷みは早いし、その本殿を覆い尽くす建物が見えています。ただの参拝の客は本殿は見えるか見えないかくらいの微妙さでしか拝むことはできません。けれども、朱塗りの建物のほんの一部だけでも見られたら、もうそれでありがたい気持ちになります。そのあたりは、伊勢のないくうさんと同じで、何もかも見えるというのは信仰にはならないのです。
マリアさまも、オシャカさまも、そこにあるようでそこにはなくて、私たちの心の中に生まれる存在です。日本の神様はもちろん、形も何もなくて、鏡とか、石とか、刀とかに仮託されることもあるようですが、それは神様ではありません、きわめて気分的なもので、神様はどこにもなくて、どこにでもあるものなのです。
わかったようなことを書いています。でも、この3本の杉の所にだっておられていいのです。だから、もう森そのものが神様のような気分です。たまたま朱塗りの社殿がありますが、それは仮のものです。本当の神様ではない。
でも、私は社殿の向こうに太陽光線が入り込み、何となくありがたい気がして、本当はいけないけれど、神様にレンズを向けてしまった。まあ、許していただけると思うのですが、そんな失礼な私には、光りとなっていた神様はどこかにまた行かれてしまいました。まあ、そんなものです。
参拝も済んで、灯籠が古そうなので、よく見たら江戸時代のお金が放り込んでありました。まさか、ウソだろうと思いましたが、たぶん本物で、だれかがわざと昔のお金を持ってきたようです。なかなか酔狂なことをされる氏子さんがおられるようです。
引退した常夜灯が3つ、肩を寄せ合って休憩しています。もう現役ではないので、ゆっくり参道を見守っている感じです。
すぐ近くにある道祖神さんで、こちらはお寺の系列のはずですが、昔はおおらかに神も仏も、こうした山里を見守っていた。心が狭いのは時の政府だけでした。でも、世の中は心の狭い人間の方が雄弁で、変な正義があるので、他人を攻撃するのに熱心で、神様も仏様も、結局バラバラにさせられてしまっています。昔は、すべてが有機的につながっていたと思うのですが、今は少し遠ざけられています。
かくして私は、麦畑を抜けて、日差しにグラグラにされたクルマに戻り、また仕事に向かうのでした。ああ、なんという日々なんでしょう。こんないいかげんな信仰心の私では、神様も助けようがないですね。
わかりました。せいぜいピュワーな信仰心を磨いて、お参りします。野次馬根性はなるべく抑えて、素直な気持ちでお祈りしたいです。
1992年ごろ、というとついこの間という気がしますが、考えてみれば23年前なので、昔と言えば昔ですけど、そのころ新しい県道ができて、この鳥居が作られたということです。クルマで走っていると、すぐここに神様がおられますよ、というのがわかるのに、その神様の森がどこなのか、ずっと気になっていて、何年か前の秋に、初めてお参りすることができて、やっと神様のおられるところにお参りすることができました。
とはいうものの、それからもずっと神様のおそばに行くことはめったになくて、いつもスミマセンと素通りするばかりで、申し訳ないと思っていました。それで、この麦があと少しで収穫間近の先週、お参りしてきました。
麦畑の浮かぶ鳥居は、なんともありがたい感じです。けれども、そこからしばらく山の方へ行かないと、神様を拝むことができないのです。
ご祭神はアマテラスさま、スサノオさま、スクナヒコナさま他の7つの神様がおられるようです。それで、1911の明治44年に、区内の小祠(しょうし)を合祀(ごうし)したということです。
どういうわけか、明治政府は神社の整理統合をしたらしいです。市町村の合併も無理矢理にさせたことがつい最近ありましたが、あれは効率やら、税金の都合のよう使い方とかいう建前で推し進められましたけど、この神社の整理にはどんな意味があったのでしようね。政府による国民の宗教政策だったんでしょうか。小さい祠はどんどん統合して、ただの石・ただの木・ただの石にしてしまって、余計なものは拝ませないことにして、余計な物を見せないで、すべてを天皇様へと目を向けさせたのかもしれません。そういう政策の意図があったんじゃないかな。
だから、邪魔なというか、その怖さを知っていた仏教を弾圧した。おかけで国内のお寺は荒廃し、つぶれたところは数知れずです。カゴシマなんて、まともなお寺はどこにもみつからない、ただ祠と、自然石としかない、仏教不毛の地にさせられてしまってますが、すべて明治政府の宗教政策だったのです。
たぶん、今ならお寺もあるはずですけど、お寺らしい建築物はありません。すべて家々に吸い込まれるような形で存在している。それが仏教にはなんとも申し訳なく、明治政府の負の遺産は今もカゴシマには続いています。
みなさん、カゴシマのお寺って、全くイメージできないでしょ。というか、私だってまともな鹿児島のお寺に行ったことがありません。すべて歴史から抹殺されたのだと私は思っています。恐ろしいことです。
しおりから、御由緒(ごゆいしょ)を抜き書きしてみます。
往昔(おうせき)、家城村(いえきむら)の住人・家城与左衛門(よざえもん)の息子で円乗坊(えんじょうぼう)という高僧あり珍徳上人(ちんとくしょうにん)という。上人、諸国の神社を参拝し、加賀の国一の宮、白山権現に詣で大麻を受けて故郷の老母の顔を見んとて帰国、家城の近く雲出川(くもずがわ)瀬戸ケ淵の岸で路傍の石に笈(おいずる)をおろし暫(しば)し疲れをいやしていた時、
笈(おいずる)の中から7羽の白鳥が飛び立ち、小倭郷(おやまとごう)、竹原、飯福田(いぶた)、山田野、八対野(はったいの)、川口、家城のの7カ所に羽を休めたという。のち、この7カ所に珍徳上人が祠(ほこら)を建て、白山比神社(しらやまひめじんじゃ)加賀白山の御分霊として奉斎(ほうさい)したのが始まりと伝えられている。
この狛犬さんは、平成14年ということで、新しい狛犬さんではありますが、なんと当時百いくつのおばあさんがおられて、その長寿の記念にお供えしたものだということです。なかなかかわいらしいコマイヌさんで、インパクトがあります。
本殿は、三角の建物の下に朱塗りのおごそかな建物があるのですが、雨ざらしにしておくと、それはもう傷みは早いし、その本殿を覆い尽くす建物が見えています。ただの参拝の客は本殿は見えるか見えないかくらいの微妙さでしか拝むことはできません。けれども、朱塗りの建物のほんの一部だけでも見られたら、もうそれでありがたい気持ちになります。そのあたりは、伊勢のないくうさんと同じで、何もかも見えるというのは信仰にはならないのです。
マリアさまも、オシャカさまも、そこにあるようでそこにはなくて、私たちの心の中に生まれる存在です。日本の神様はもちろん、形も何もなくて、鏡とか、石とか、刀とかに仮託されることもあるようですが、それは神様ではありません、きわめて気分的なもので、神様はどこにもなくて、どこにでもあるものなのです。
わかったようなことを書いています。でも、この3本の杉の所にだっておられていいのです。だから、もう森そのものが神様のような気分です。たまたま朱塗りの社殿がありますが、それは仮のものです。本当の神様ではない。
でも、私は社殿の向こうに太陽光線が入り込み、何となくありがたい気がして、本当はいけないけれど、神様にレンズを向けてしまった。まあ、許していただけると思うのですが、そんな失礼な私には、光りとなっていた神様はどこかにまた行かれてしまいました。まあ、そんなものです。
参拝も済んで、灯籠が古そうなので、よく見たら江戸時代のお金が放り込んでありました。まさか、ウソだろうと思いましたが、たぶん本物で、だれかがわざと昔のお金を持ってきたようです。なかなか酔狂なことをされる氏子さんがおられるようです。
引退した常夜灯が3つ、肩を寄せ合って休憩しています。もう現役ではないので、ゆっくり参道を見守っている感じです。
すぐ近くにある道祖神さんで、こちらはお寺の系列のはずですが、昔はおおらかに神も仏も、こうした山里を見守っていた。心が狭いのは時の政府だけでした。でも、世の中は心の狭い人間の方が雄弁で、変な正義があるので、他人を攻撃するのに熱心で、神様も仏様も、結局バラバラにさせられてしまっています。昔は、すべてが有機的につながっていたと思うのですが、今は少し遠ざけられています。
かくして私は、麦畑を抜けて、日差しにグラグラにされたクルマに戻り、また仕事に向かうのでした。ああ、なんという日々なんでしょう。こんないいかげんな信仰心の私では、神様も助けようがないですね。
わかりました。せいぜいピュワーな信仰心を磨いて、お参りします。野次馬根性はなるべく抑えて、素直な気持ちでお祈りしたいです。