甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

夜店のシートと夏目漱石

2015年05月26日 21時56分26秒 | 中学生までのこと
 知っているだけでは出会いにはならない。受け止める側が、この出会いを大切にしようという強い意志があって初めて、「出会い」は忘れられないものになるのだ。

 私はその人の名を聞きかじっていただけなので、呼び捨てまたはうろ覚えにしていて、まともに向き合ったことはなかった。なかなかその人と出会えてなかったのである。

 たしか金曜だったか、それとも三のつく日だったのか、とにかく夜店のある日のことだった。小さいころの夜店というのは、それは魅力のあるもので、それまでに風呂屋に行ってキレイさっぱりにして、少しいつもとは違う、何かいつもの通りも華やかな魅力を放つ、何だかとても楽しい空間がそこにはあった。



 ある夜のこと、挿絵入りの子ども向けの本を見つける。40年以上も昔の、60年代の後半のころ、古本屋さんも夜店に参加していた。私は貸本屋さんは経験していなくて、本は親の持っているものと、学校で借りてくるものが手に触れられるものだった。近所の商店街の本屋さんは立ち読みには厳しい本屋だったし、自分で本を買おうとするのは中学になってからだったので、夜店の本屋さんは貴重な本に触れる機会だったのだろう。

 さて、手にした本に描かれていた絵は、その場の状況と同じような夜店風景であった。誰がそこに描かれていたのだろう。手にしても、たまたま家の者が買ってくれた本となるのだが、折角手に入れても全く見開きの絵をチラッと見ただけで、中味には全く興味が無く、私はノータッチになってしまう。家の者が読みたくて、もしくは子供らに読ませたくて買ったものだったが、だれも手に取ろうとしなくて、しばらく家にあったその本は、やがてゴミとして処分されたのかもしれない。



 その本は、後から考えると、夏目漱石先生の「吾輩は猫である」ではなかったろうか。それとも、漱石先生の自伝かなにかだったのか。

 灯りに照らされた露店の風景。店の後ろの方に籠に入れられた男の子がいる。彼はその幼い頃の体験を猫に託して、猫と一家との出会いからその死までを猫に語らせる物語を世に出したのだ。私が目にしているのはその子ども版だったろうか。私と夏目漱石先生との最初の出会いである。しかし、この時の私は幼くて、出会ったと言えないような状況で、ただのニアミスでしかなかった。

 数年が経過した中学3年の初め、どういうわけか私は文学小僧になっていた。立ち読みに厳しい本屋は置いてある本が何もなく、雑誌やら、売れ筋の本などがあったのだと思われる。文学小僧には無縁の本屋となった。新しく立ち読みに寛容な、文庫本をたくさん置いてある本屋ができて、私はこちらに行くことが多くなった。塾の帰りにみんなで連れだって本を探しに行くことだってはじめたのである。

 生意気にもNHKの高校講座で『三四郎』の朗読・開設を聞き、いっぺんに目が開かれて、漱石先生の世界へと分け入ることになる。ボンヤリした真面目な三四郎と、思わせぶりな女たちの群像が、自分の知らない大人の世界を見せてくれているような気がしたのである。

 けれども、三四郎が物語の最後に知り得たものは、謎の「ストレイシープ」という言葉であった。読んでみて、クスグリの笑いと独特の表現が気に入ったけれど、内容としてはイマイチつかめていなかった。だもんだから、私はそこから前期三部作へと入り込み、何もつかめず、一番気に入った「虞美人草」やら、見つけたりはするけれど、謎は深まるばかりであった。

 漱石先生は、養子に出されていて、露店でカゴに入れられている姿を哀れんだ親族の人が、養家から救い出してくれて、夏目家にもどることができた。けれども、漱石先生の心には、どこかに自分の家が見つからない不安というのか、本当の家族ってなんだろうとか、簡単に答えのでない、考えるのが面倒な人たちは、そこにあるのが家族で、自分がいるところが自分の家ということだろうけれど、漱石先生はずっと探しておられたのではないか、と私は思うのである。



 夜店にワクワクした小さかった私は、いつのまにかオッサンになって、老後をどう生きるのか、いつも考えねばならない状況にある。月日の経つのは本当に早いものだ。私は漱石先生の年齢を何年か前に超えてしまっている。それなのに、あいかわらず、全く漱石先生に及ばない。それならいっそ、今住む町で夜店の実行委員会でも作ろうかしら……。誰もやろうなんて言わないでしょうけどね。


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