1月の5日・火曜日の朝日新聞に、阿川佐和子さんへのインタビュー記事が載っていました。こりゃ、メモしておかなくちゃと、打ち込んでみました。
それも、私が気になったところは、そこだったんですね。
(母の)最期には、実際に病室で立ち会うことができました。危篤状態になってから息を引き取るまでの七時間ほど、母の病室で過ごしました。だんだんと呼吸が遠くなっていき、「これで終わりかな?」と思ったら、また一つ呼吸をする。そんなことが何回か繰り返されたあと、最後のひと息まで見届けることができました。そして、落ち着いた気持ちで「とうとう逝っちゃったんだ」と感じました。
家族の死というのは、避けられないものではあるのだけれど、できれば考えたくないけど、自分もある程度の年齢になってしまったら、先に生まれた親たちが亡くなっていくのは自然ではあるんでしょう。
でも、納得できないんです。でも、納得というのか、諦めというのか、何か自分で自分を落ち着かせなくてはならない。ずっと波風が立っているのだから、それをひとまずは静かな海にしなくてはならない。
母のことが好きだったので、亡くなる時は泣いてしまうだろうと想像していたのに、そうではなかった。なんでだろう、と考えると、父の死を思い出します。同じ病院で五年前に亡くなった父の臨終には間に合わなかった。ショックで、泣きました。母の死はもっと悲しいだろうと予想していたのに冷静でいられたのは、母を見守りながら送り出すことができたからだと思います。
私は、ずっと見守っていたのではなくて、とりあえずまだだから自宅で待機していなさい、そう言われたのかもしれない。いや、母がしばらく家に帰ろうと提案したんだったか。
そうでした。ゴハンを食べなくてもいいから、ずっと今を生きている父と同じ空間にいてあげたらよかったのに、それをしなかった。
そこが私の未熟な部分でした。母は今までずっと見続けてきたのだから、母が自宅に帰るのは別に良かった。なのに、私まで母について行ったなんて、どこまで母に依存してたんでしょう。今さらながら悔やまれます。
でも、父は私がいても、役には立たなかっただろうな。おっかなびっくりで病室にいるだけだったから。
葬儀にも同じような面があると思います。若い時は、葬式というものはどうも辛気くさいイメージがあって、行きたくなかった。でも、友人の親御さんが亡くなった時、参列した式で旧友に再会したら、たちまち同窓会状態の騒ぎ。みんなで喪服を着て大笑い。その時、亡くなった人が集めてくれたんだな、と気づいたんです。普段は忙しくて会おうとしない私たちを、集めてくれた。そうやって集まることによって、遺族も悲しみを紛らわすことができるのではないでしょうか。
それはその通りです。家族の死はとてつもなく大きな穴を空けてしまう。でも、この世に残る親類が集まれば、とりあえず、いなくなった人をしのぶ時間ができるし、みんなで語ることができたじゃないですか。
そんなになっても、母は親戚への体裁を気にしてたけど、私なんかは、やっと父も解放されただろうなと、少しだけホッとする部分もありました。何か月ぶりかで会う親戚たちとも、最後の別れができただろうし、悲しくはあったけれど、父を囲んで親戚一同の小宴会みたいなのは楽しかった、というと不謹慎だけど、心慰められる部分があったなあと、もうかなり昔のことではあるんですけど、あの時のことも懐かしく思い出せるようになりました。
そうなんですよ。このブログも、父が亡くなったことから立ち上がるためにスタートさせたんですよ。すぐには書けなかったけど、しばらくしてから、書き始めたんです。だから、本来の目的である父の日記の発掘もしなくちゃいけないのに、アホな息子の私は、ちっとも進めていなくて、本当に申し訳ない感じなんです。
阿川さんのおかげで、久しぶりに父のことを思い出せました。母には、週末にミカンか、何か送ろうと思います。母は買い物にもそんなに行ってないと思うし、そうします!
ただの日記になってしまいました。失礼しました。