47【( )年鳴かず飛ばず】……長い間何事もしないこと。または、長く雌伏(しふく)しているたとえ。
48【鼎(かなえ)の軽( )を問う】……他人の権威・実力を疑い軽視するたとえ。
* 47には適当な数字を、48には「軽」の反対の文字を入れてみてください。
長江の南側・内陸部に楚という国があったんだと思います。後々、項羽さんが出て来て、劉邦さんと対決する場
面があるので、私たちには楚という国に、少しだけ思い入れを持っています。あの項羽と劉邦の時代は、漢という国が生まれる時だから、紀元前200年以前です。
そこからさらに400年ほど前、紀元前6世紀のころのお話です。
楚の国は、どういうわけか、そこのトップの人は「……王」ということになっていました。春秋時代というのは、王はただ1人で、中心にある周のトップだけが「……王」でした。周のまわりの、斉(せい)だったり、晋(しん)だったり、魯(ろ)の国のトップは、「……公」でした。
周辺の国々は、好き勝手にやっているのだけれど、その中心である周という国に対する敬意は持っていました。そして、ごくたまに、あまりに周の王様を軽視している、そういう事態になったら、見るに見かねて立ち上がるトップがいました。周の王様を立てて、自分が軍を率いて、他の諸国を従わせるのです。諸国の大名を1カ所に集めて、形として周の王様に忠義を誓う儀式をすることが流行ったりしました。
春秋の五覇(しゅんじゅうのごは)、と呼ばれる大名(諸侯)は、諸説ありますが、一応、数百年の間に、一度は軍事力で、諸国の大名を集め、周の王様に従おうねと、というイベントを行った人たちです。
斉の桓公(かんこう)さん、宋の襄公(じようこう)さんも、5人のうちのひとりとして数えられています。
黄河文明につながる人たちは、一応同じ文化圏だから、わりと話が通じるのかもしれません。となると、長江に隔てられた南側の国の楚は、少し文化圏か違うのかもしれない。言語だって違ってたかもしれません。となると、人間ですから、すぐにあいつらはボクらと少し違うと線を引きたがるものです。
それで、いろんな形で微妙な対立や意地の張り合いが生まれます。素直にお互いの違いを認め合うことはなかなかできない。ましてや古代であれば、簡単に交流はできないですし、長江って、交流の場ではあると思うのですが、断絶の境界になってしまうこともあったでしよう。
その1つが、楚の王号です。もうオレは王様になると宣言して、「……王」を名乗るのです。そこには、プライドと意地とコンプレックスがまざっています。
勝手にやっていくモンという気持ちと、仲間はずれにするから、オイラは王様になるのさ、フン! と意地になってみたりして、お互いが交流できていたら、もう少し違った関係が生まれたかもしれません。
楚の荘王が立ったのは、紀元前613年のことだそうです。
即位してから……年の間、号令を発することもなく、日夜享楽して「あえて諫める者あらば、死刑に処して許さず」と宣言しました。よほど何かの覚悟があってしたことだと思われますが、なかなかできることではありません。ただのスケベー王だったのか、よっぽど賢い王様だったのか、どっちだったんでしょう。
伍挙(ごきょ)さんという人がいて、王様に注意しようと思ったそうです。この伍という名字の人は後々大活躍するので、ああ、あの人のご先祖様だという感じですけど、とにかく王様をなんとかしなくてはと考えました。
そこでたとえ話をしたそうです。
「鳥が岡にいて、3年間、鳴かないし飛ばなかったそうです。これ何という鳥だと思われますか?」
悪意のあるスケベー王様なら、「それは荘王という鳥だ。お前は死刑だ!」となるところです。
史記には王のことばが書かれています。「3年の間、飛ばないが、飛べば天までのぼるだろう。3年の間、鳴かないが、鳴けば人を驚かすだろう。挙よ、引き下がれ。わしはわかっておるのじゃ。」
と語ったそうです。父の喪に服していたということでしようか。それならそれの生活スタイルがあると思うんですけど、好きなことをしまくるんですから、「英雄色を好む」ということなのかな。何だかズルイ気がします。まあ、英雄でない者のひがみですね。《史記・楚世家》
楚の荘王が普通に政治をするようになってしばらくして、たまたま(?)洛陽まで軍隊を引き連れて行ったことがあったそうです。むやみに進軍したのではなくて、一応周に逆らう敵を倒すため、たまたまそこまで軍を進めた。とはいえ、何かあやしい魂胆があったはずです。
郊外に軍をとどめていると、周のお使いの人がやってきました。そこで田舎者の荘王は質問します。
「周の宝物の鼎(かなえ)はどれくらいのものなんですか?」と。
いかにも田舎者というのか、最初からその宝物が欲しいのが見え見えというのか、少しあさましい。あまり賢い王様とは言えないかもしれない。
すると、使いの大夫(たいふ)の王孫満(おうそんまん)さんは語ります。
「王様、周王室に伝えられている鼎は、何千年も昔の国の王様が、たくさんの鉄器を合わせて作らせたもので、夏・殷・周とずっと支配者に伝えられてきました。夏のダメダメ王様の桀(ケツ)さんの時にも、殷の最悪の王様の紂(チュウ)さんの時にも、その手元にあって、今は周の王様のところにあります。周は力は衰えたとはいえ、今それを移動させようという時ではありません。」と。
そのことばでシンミリした荘王さんは反省して、国へ帰ったそうです。そこで逆上しないのだから、そんなにアホではないのかもしれない。
どっちにしろ、荘王さんは、デビューの時はスケベーで、王様になったら野心全開で、何だか扱いにくい王様です。こんなところへ孔子さんたちは行かなくてよかったですね。もう少しあとになって、行ったんですね。危なかった。
★答え 47・三 48・重(けいちょう)
48【鼎(かなえ)の軽( )を問う】……他人の権威・実力を疑い軽視するたとえ。
* 47には適当な数字を、48には「軽」の反対の文字を入れてみてください。
長江の南側・内陸部に楚という国があったんだと思います。後々、項羽さんが出て来て、劉邦さんと対決する場
面があるので、私たちには楚という国に、少しだけ思い入れを持っています。あの項羽と劉邦の時代は、漢という国が生まれる時だから、紀元前200年以前です。
そこからさらに400年ほど前、紀元前6世紀のころのお話です。
楚の国は、どういうわけか、そこのトップの人は「……王」ということになっていました。春秋時代というのは、王はただ1人で、中心にある周のトップだけが「……王」でした。周のまわりの、斉(せい)だったり、晋(しん)だったり、魯(ろ)の国のトップは、「……公」でした。
周辺の国々は、好き勝手にやっているのだけれど、その中心である周という国に対する敬意は持っていました。そして、ごくたまに、あまりに周の王様を軽視している、そういう事態になったら、見るに見かねて立ち上がるトップがいました。周の王様を立てて、自分が軍を率いて、他の諸国を従わせるのです。諸国の大名を1カ所に集めて、形として周の王様に忠義を誓う儀式をすることが流行ったりしました。
春秋の五覇(しゅんじゅうのごは)、と呼ばれる大名(諸侯)は、諸説ありますが、一応、数百年の間に、一度は軍事力で、諸国の大名を集め、周の王様に従おうねと、というイベントを行った人たちです。
斉の桓公(かんこう)さん、宋の襄公(じようこう)さんも、5人のうちのひとりとして数えられています。
黄河文明につながる人たちは、一応同じ文化圏だから、わりと話が通じるのかもしれません。となると、長江に隔てられた南側の国の楚は、少し文化圏か違うのかもしれない。言語だって違ってたかもしれません。となると、人間ですから、すぐにあいつらはボクらと少し違うと線を引きたがるものです。
それで、いろんな形で微妙な対立や意地の張り合いが生まれます。素直にお互いの違いを認め合うことはなかなかできない。ましてや古代であれば、簡単に交流はできないですし、長江って、交流の場ではあると思うのですが、断絶の境界になってしまうこともあったでしよう。
その1つが、楚の王号です。もうオレは王様になると宣言して、「……王」を名乗るのです。そこには、プライドと意地とコンプレックスがまざっています。
勝手にやっていくモンという気持ちと、仲間はずれにするから、オイラは王様になるのさ、フン! と意地になってみたりして、お互いが交流できていたら、もう少し違った関係が生まれたかもしれません。
楚の荘王が立ったのは、紀元前613年のことだそうです。
即位してから……年の間、号令を発することもなく、日夜享楽して「あえて諫める者あらば、死刑に処して許さず」と宣言しました。よほど何かの覚悟があってしたことだと思われますが、なかなかできることではありません。ただのスケベー王だったのか、よっぽど賢い王様だったのか、どっちだったんでしょう。
伍挙(ごきょ)さんという人がいて、王様に注意しようと思ったそうです。この伍という名字の人は後々大活躍するので、ああ、あの人のご先祖様だという感じですけど、とにかく王様をなんとかしなくてはと考えました。
そこでたとえ話をしたそうです。
「鳥が岡にいて、3年間、鳴かないし飛ばなかったそうです。これ何という鳥だと思われますか?」
悪意のあるスケベー王様なら、「それは荘王という鳥だ。お前は死刑だ!」となるところです。
史記には王のことばが書かれています。「3年の間、飛ばないが、飛べば天までのぼるだろう。3年の間、鳴かないが、鳴けば人を驚かすだろう。挙よ、引き下がれ。わしはわかっておるのじゃ。」
と語ったそうです。父の喪に服していたということでしようか。それならそれの生活スタイルがあると思うんですけど、好きなことをしまくるんですから、「英雄色を好む」ということなのかな。何だかズルイ気がします。まあ、英雄でない者のひがみですね。《史記・楚世家》
楚の荘王が普通に政治をするようになってしばらくして、たまたま(?)洛陽まで軍隊を引き連れて行ったことがあったそうです。むやみに進軍したのではなくて、一応周に逆らう敵を倒すため、たまたまそこまで軍を進めた。とはいえ、何かあやしい魂胆があったはずです。
郊外に軍をとどめていると、周のお使いの人がやってきました。そこで田舎者の荘王は質問します。
「周の宝物の鼎(かなえ)はどれくらいのものなんですか?」と。
いかにも田舎者というのか、最初からその宝物が欲しいのが見え見えというのか、少しあさましい。あまり賢い王様とは言えないかもしれない。
すると、使いの大夫(たいふ)の王孫満(おうそんまん)さんは語ります。
「王様、周王室に伝えられている鼎は、何千年も昔の国の王様が、たくさんの鉄器を合わせて作らせたもので、夏・殷・周とずっと支配者に伝えられてきました。夏のダメダメ王様の桀(ケツ)さんの時にも、殷の最悪の王様の紂(チュウ)さんの時にも、その手元にあって、今は周の王様のところにあります。周は力は衰えたとはいえ、今それを移動させようという時ではありません。」と。
そのことばでシンミリした荘王さんは反省して、国へ帰ったそうです。そこで逆上しないのだから、そんなにアホではないのかもしれない。
どっちにしろ、荘王さんは、デビューの時はスケベーで、王様になったら野心全開で、何だか扱いにくい王様です。こんなところへ孔子さんたちは行かなくてよかったですね。もう少しあとになって、行ったんですね。危なかった。
★答え 47・三 48・重(けいちょう)