うちの家にあるものをかき集めてみました。一番新しいのは、2011年の俳句集(岩波文庫)です。
誰のかを書くのを忘れてました。芥川龍之介さんです。俳句も書いてるのは知ってたけど、2010年の9月に出たものを半年遅れて買ったみたいです。
そして、もう10年ほどが経過してますけど、全く読んでいないし、開いたこともないかもしれません。ああ、何ということか。今すぐ売り飛ばさなきゃダメですね。そんなに芥川さんの俳句に期待してるわけじゃないだろうし、何かを解明しようという意欲もない癖に、つい買ってしまうなんて、アホですね。
そんなショボクレたこと書いてないで、もっと芥川さんを見てみます。
「蜘蛛の糸・杜子春」「地獄変・偸盗」(ともに新潮文庫)これらは中学生の時に、近所の本屋さんで買いました。だれかにもらった角川文庫の「羅生門」は、カバーもなくて、書き込みもいっぱいで、ずっと持ってたんですけど、今はどこかの段ボールの中かもしれない。
「羅生門・鼻」を新潮文庫で再び買いましたが、これは2003年、うちの子に読ませるためでした。読んだんだろうか? 怪しいです。
1978年に「奉教人の死」「河童・ある阿呆の一生」を買ってますけど、これは自発的でない気がする。レポートか何かで読まされたんではないかな。
ああ、結局私はちゃんとした芥川さんのフォロワーではありませんでした。
晩年の「ある阿呆の一生」あたりに来ると、もう怖くて、読んでられませんでした。チラッとは読んだでしょうけど、通して読んだのかどうか。
私が気づいた時には、芥川さんという人は、もういませんでした。何か事情があって亡くなって、ものすごい才能はあるし、いろんな世界を見せてくれていたのに、突然いなくなったみたいでした。
芥川さんの少年ものの「トロッコ」とか、「蜜柑」とか、あんなのも好きだったんですよ。とてもノスタルジックだし、ファンタジーだし、いろんなものが書けたのだとつくづく思うのです。
でも、残念なことに、芥川さんは1927年35歳で亡くなります。
世の中が、いろんな才能を食い尽くして、才能ある人が消えていく、というのを訴えてますけど、そんなのは当たり前なんだと思います。
そういうのに耐えて、世の中から距離を置き、自分独自の道で大林宣彦さんみたいに何が何でも映画を作る、という人生もありましたけど、大林さんだって、世の中の要請で、不本意なものを作ってるかもしれないし、とにかく、世の中は、私たちは、お客は、才能ある人を振り回して、もっと面白いの、もっとドラマチックなの、もっとびっくりするようなものを、というふうに求めるでしょうね。
それに応えすぎて、芥川さんの晩年は自分をネタに燃やし尽くそうとする感じです。しかも、とてもドライで、皮肉っぽくて、斜めから見ている感じです。
「河童」を書く時の姿勢は、まだOKなんですけど、「ある阿呆」は、もう自らをえぐり出す感じで、そんなことしなくても、もっとネタはあったと思うんですけど、それをしないではいられなかったなんて……。
ものすごく作品を求められてたんでしょうね。断筆宣言したり、海外特派員になったり、漱石先生みたいに新聞社に所属したり、何か道があればよかったのにな。いや、いっそのこと、学校の先生をしばらくするとか、息抜きする道もあったのではないか、と思いますが、今さら私が嘆いても何にもなりません。
世の中は、いろんなものを食い尽くすようにできているみたい。それに応えないで、適当なとこに避難して、逆に何かを食べてたら、生きる道はあったでしょうか。でも、そうすると、作家・芥川は消滅しますから、そこに立ってる作家魂は泣くでしょうし、難しいです。