半世紀ほど前、志賀直哉の「正義派」というのをガッコーの授業で習いました。何だか、鮮やかで、風景が見えてくるようだったけれど、それは直哉さんの力でしたね。わりと好きだったんだけれど、何とも言えない挫折感もありました。
どこかで見たような、既視感があったなあと思ったら、香港のすべての民主派が強大な国家権力に押しつぶされる姿と重なってきます。
今朝も、ラジオでは、香港の民主派新聞が四半世紀の活動の後、今日だか、昨日だかで廃刊になり、最終号を買うために人々は行列を作ったというニュースがありました。
かなりの支持もあったし、何にもなかったら、続けられたのかもしれないけど、大陸政府を批判するようなメディアが生き残れるはずもなく、滅ぼされていくようです。
そうした圧迫感の中に香港の人たちは置かれている。ものすごい閉塞感なんでしょうね。もう、今までの生活をしたいなら、カナダやアメリカなどの北米に行くか、移民としては入りにくいヨーロッパは難しいし、シンガポールとかをめざしますか? それとも、オーストラリアや、マレーシアかな?
香港の挫折と似ている?
いや、いろんな挫折感に似通ったものがあるんですね。
十年も使っていなかった四十年経過している原発を再稼働させる。その根拠は? それはただの経済優先理論なんでしょう。「安全安心」と政府が宣言するということは、一番危なっかしいものではあったのです。
他には? とにかく、いろいろな挫折感のエッセンスが入っている作品でした。
路面電車の前を女の子が歩いているように見えた。実は、歩いているのではなく、必死になって事故から逃れようとしていたはずなんだけど、女の子は死んでしまう。運転手も事故を避けようとしたはずなんだけど、それを避けられなかった。
目撃者はあまりなく、たまたま路面電車のレールを設置していた線路工夫のみなさんたちが警察に行くことになった。
みんな必死になってみていた様子を語るのです。会社の偉い人たちも来る。「君たちは、会社の下請けなんだから、会社に不利なことは言ってくれるな。ちゃんと忖度して、あたりさわりのないことを言いなさい」と助言する。
いくら下請けとはいえ、事故は事故だし、過失は運転手にあるし、それはごまかすことはできないと工夫たちは思い、証言を変えない。
警察は、会社のことも理解し、運転手のミスも取り上げるし、ニュートラルな位置にいる。でも、立場上この工夫たちは微妙だなとは思ってたかもしれない。
取り調べは済み、工夫たちは警察を後にする。そうすると、急に自分たちの今後のことが思いやられ、事故現場で降りたくなるし、みんなでちゃんと事故をはっきりさせたいと思っているのに、霧は晴れず、何だかモヤモヤした気持ちに覆われるのでした。
そして、年かさの男なんて、泣いてしまったりする。このやるせなさ、しばらく私は忘れていました。
久しぶりに読んでみるかな。いや、他のも読まなきゃいけないし、とりあえず、半世紀ぶりに思い出したので、メモしておきます。
本当は、大正元年ということだから、1912年・作者29歳の時の作品ということになるんですね。
作品そのものは100年以上前のものだったんですね。
(未整理だけど、とりあえず載せてみます!)