甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

受験旅行の夜 HSD-44

2016年03月31日 05時51分05秒 | High School Days
   受験旅行の夜

 初めて飛行機に乗り、一人で鹿児島に着いてしまった。やっぱり方言が存在していた。飛行機内では、高校の食堂の一番若いオネエチャンをさらに美しくしたような女性が隣りにいた。自分は30―Fで窓ぎわにいた。厚い雲を突き破り、青空に出た。もうあの、六甲・西宮・芦屋・伊丹・西宮球場などのパノラマは全くなくて、ただ灰色の水滴を抜けると、雲が山々のように高鳴っていた。飛び降りたくなった。

 突然「おしぼりをどうぞ」という声がした。少しためらって、無料のようなので、ありがたくいただいて、手をふいて、膝の上に置いておいた。おてふきを取りに来たスチワーデスに隣りの女の人が、僕の膝から取って、スチワーデスに渡してくれた。なんと大胆な、わるびれない態度! 

 しかし、鹿児島に着くとすぐ彼女を見失った。それからは六百円のバスに乗って今ここにいる。ツインルームの同室になった隣りの人は宮崎からだそうだ。明日は下見に行ってみよう。滑ってもともと……という考えはいけない! 必勝の信念で立ち向かおう。

 以上、受験旅行記みたいなものを書いた。しかし、そうたくましいものでなく、母・弟と別れ、一人で空港のロビーに座っているとき、自分は涙が出そうになったが、こらえて、今こうしてホテルの中にいるのだ! 




 七十八年の受験は、父母のふるさとG大学でしめくくりとなる。共通一次試験が始まる前年で、国公立は一期校、二期校でそれぞれ受験する形式であった。試験の感触は悪くなく、気分的なものではあるがKとしては「合格」したような気分でいたのである。そのころにはKの母と弟も鹿児島へ遊びに来ていた。

そう、あの時の春休みは、合格してそのまま鹿児島に滞在して、いろいろと手続きを進めようという算段だったのだ。それが、三月も末になって発表の日、なぜか自分の番号がなく、驚きあきれ、大阪に残っていた父に連絡する。そうすると、

 「F大学の手続きが迫っており、下宿も探さねばならないので早く大阪へ戻ってこい」ということだった。



そして慌てて大阪へ戻り、すぐに夜行列車で塩尻経由でYN県に行くことになる。

 しばらく会えないからと友人たちに連絡すると、みんなが見送りに来てくれた。友人たちの大半は浪人が決定していて、みんな新学期の準備に追われていたのだが、夜の大阪駅に集まってくれた。

 当時の列車の窓は、フルオープンにすることができて、ホームの上で胴上げされたKは、窓から中へ放り込まれた。

 Kの父・母・弟、家族全員でYN県へ旅となった。弟が行くことになったのは、一人にしておくと何をしでかすかわからないという、Kの母独特の家族観から同行させられていた。

 YN県には昼過ぎに着いて、あわただしく下宿を決定し、家財道具などを買い整え、夕方には三島回りの新幹線で帰っていくのだった。

 下宿に一人残されたKは、いっぺんに心細くなり、「どうして自分はここにいるのかわからない」という、何かに甘えた感じを持ちながら大学生活に入ることになった。

 愛用のサイクリング自転車が届くと、少し落ち着いたものの、心は大阪や鹿児島に残したまま、体だけがYN県にある日々が続いた。これがKの大学生活のスタートであり、ここからどんなことが起こるのか全く不明ではあった。



 
★ ずっとつづけて来た「Kくんのハイスクールデイズ」は次回で終了です。そのあとの若き日々を書きたい気持ちはありますが、ほとんど忘れていますか……。

 そうでした。ブログは、父の日記を掘り起こすための場が欲しくて始めたことでした。ずっと父へのこだわりが私のブログの原点でした。それで、もう2年半過ぎたわけですね。

 それで何か見つかりましたか? あまり見つかってはいないけど、日々のアクセントにはなっています。それができなくなった今朝は、もうショックでした。ウインドウズ10なんて、やめて良かった!

 あまり悪口を書くと、マイクロソフトさんに目を付けられますね。私がたまたまダメだっただけで、大半は良好なんだと思います。私がどんくさいだけです。







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