孔子先生の旅を聞かせてもらっています。相変らず私は旅に憧れつつも、どこにも行けないまんまです。どうしたらスッと旅することができるんでしょう。そりゃ、旅するよと宣言して、行くだけなんだろうな。
それができてないということは、私の心くじけなんです。すぐにイジケてしまう。なかなか、昔からの性質というのは治りません。まあ、仕方ないです。
先進編の26にこんな話がありました。お弟子さんの子路さん、曽皙(そうせき)さん、冉有(ぜんゆう)さん、公西華(こうせいか)さんの四人が、先生に自分たちがこの世でやりたいことを順番に述べます。
子路さんは、大国に挟まれ、戦争が起こり、飢饉が重なるという時に、人々に勇気をもって物事をわきまえる国にしていきます! という政治家としての夢を語ります。
世の中はそんなに簡単ではないし、一人の人の力ですべてをコントロールできるって、あるんだろうか、と私なんかは思ってしまいます。人間って、すべてうまくコントロールしていると自負したり、広言したりする時点ですでに危ういという気がします。子路さんピンチです。
続いて、冉有さんは、20キロ四方の土地(小さな町という感じでしょうか)を治めて、人々を豊かにしてみます、と述べます。……確かに、自分のいる地域を豊かにする、というのは政治家の腕の見せ所ではあります。それだけで世界が完結していたらいいのだけれど、外から何がやってくるかわからないのが人間世界です。小さな桃源郷みたいなところがあれば、政治家は要らないのになあ。
公西華さんは、儀礼・行事の時、礼服を着て、人々の動きを学びたいと述べます。自分が主役になるのではなく、人間がどのようにふるまうのか、それらを学びたいと言います。
最後に、曽皙さん(曽参さんのお父さんで、やはりお弟子さんです)が言います。
莫春(ぼしゅん)には春服(しゅんぷく)既に成(な)り、冠者(かんじゃ)五六人、童子(どうじ)六七人を得て、沂(き)に浴し、舞雩(ぶう)に風(ふう)して、詠じて帰らん。
春の終わりごろ、春着もすっかり整って、五六人の若者たちと六七人のこどもたちとで、沂水(きすい)で水浴びをしたり、雨ごいに舞う舞台のあたりで涼みをして、歌いながら帰って来ましょう。
そういう春の終わりの遊びがしたいというのでした。一人旅ではなくて、若い人たちがキャーキャー言いながら、水際で大騒ぎしているのをのんびり眺め、自分も中に入ったり、輪から外れたり、まるでガッコーの先生みたいな発言です。ガッコーの先生も、こういう野外学習とか、するのは楽しいでしょうね。シャチホコばって教育然としているのはダメだな。
他の三人が、それぞれの希望を述べていたのに、曽皙さんは肩透かしみたいな返答でした。
四人の希望が出たあとに、先生は「私は君に賛成するよ」とおっしゃるのでした。
お弟子さんたちは、政治に希望を持っていたので、それぞれのやれる仕事を語りました。曽皙さんは、年配のお弟子さんだったのでしょう。ガツガツしてなくて、のんびり小川で水遊びしたいという政治とは関係のないことを述べました。
どうしてそんなトンチンカンなことを言ったんだろう。でも、この気負いのなさ、政治に対する欲のなさ、これは貴重です。やる気のない政治家が、個々のお役人さんたちを元気づけて、リラックスさせてあげて、いい世の中を作れたらいいんだけど、そんなに簡単なものでもないかな。
でも、きれいな水に触れて、のんびりするというのは私たちには大事なのは確かです。