結城宗広(ゆうき・むねひろ)という武将がいたそうです。南北朝時代に活躍した人とか……。亡くなったのは三重県だけど、名字からもわかるように活躍したのは関東の方らしいです。
鎌倉幕府の忠実な家臣として南奥州方面の政務を任されていたそうです。ところが、後醍醐天皇からのお誘いを受けると、コロリと寝返って新田義貞さんと組んで鎌倉攻めにも参加し、それなりの功績を挙げます(1333)。
北畠顕家さんが多賀城に入れば、奥州方面の統治を任されます。若き顕家さんのスタッフとして信頼されていたのかもしれません。それとも、顕家さんを有望株として見込んで、彼の後についていく戦略だったのかもしれない。何しろ若いし、強いし、プリンスだし、この人について行けば間違いないと踏んでいたのかどうか……?
足利尊氏さんの1回目の京都攻略では、顕家さんと共に軍を率いて京都奪還に大功を挙げます。九州に逃れた尊氏さんの2回目の京都攻略では、顕家さんと共に足利軍と懸命に戦い、頼みの顕家さんが敗死してしまい(1338年)、いっぺんに軍は壊滅して、宗広さんは命からがら後醍醐天皇がいる吉野へと逃れました。もう希望がなくなってしまった。
その後、宗広さんは南朝勢力再起のために、顕家さんのお父さんの北畠親房さんと、海路から奥州へ向かおうとします。ところが、伊勢国・安濃津(あのつ 現在の津市)あたりで遭難して、間もなくそちらで病死してしまいます。
津市には遭難した海岸近くに結城神社というのがあって、県内の人々は、ここのしだれ梅祭りというのを見に行くことしているみたいで、私も一度だけ行ったことがありました。その時は、メジロたちがものすごく元気で、見に来る人たちはしんみりと楽しんでいるようでしたっけ……。
というわけで、津市の海岸近くにある結城神社に行ったんですね。用事のついでに行ったので、ほんの20分くらいしかなくて、社殿の外にある梅と狛犬さんを撮っただけです。
この狛犬さんは、長崎の平和記念公園の天を指している像を作った北村西望(きたむらせいぼう)さんの作品で、長崎の像と同じように、おっとりしているんだけど、スマートで、威厳があります。だから、何となく場違いな感じがしました。私が変なのかなあ。
紅梅やら、しだれ梅やら、それなりに咲いていましたが、あともう少しの感じでした。しだれ梅は遅いのかもしれない。うちの梅は満開なんだけどなあ。
さて、宗広さんは、歴史の闇に消えて、江戸時代に復権したのかもしれません。亡くなってから500年して、1883年(明治16年)8月6日に 贈正四位をもらったそうで、一族としてはそんなことよりお金をくれと思ったろうけど、とにかく表彰されてしまいました。
このあたりも、何だか政治的です。ずるい感じです。後醍醐天皇あたりの関係者はもちあげられるのに、それ以外の時代の人たちは持ち上げられることがないなんて、逆に楠木正成さんなんて、持ち上げられすぎてなんだかくすぐったいと思ったでしょう。
政治って、そんなことをするんですね。それに踊らされたり、そそのかされる私たちは、よっぽと慎重に対処しないと、とんでもないことになってしまう。
さあ、結城神社は見ました。大好きな津の浜辺まで歩くことにしました。すぐ近くにありますし……。
伊勢参宮名所図会にはこうあるそうです。
阿古木浦(あこぎうら) 今津の城下(じょうか)岩田橋より巽(たつみ 南南東)にありといへど、古所詳(つまびらか)ならず、………按るに、阿漕は地名にて、元は一堆の島にてありしなるべし、其證歌六帖、鯛の題にて、
あふことをあこぎの島にひく鯛のたび重ならば人しりぬべし、
此歌を直して、いせの海あこぎが浦にひくあみのたびかさなれば顕(あらわ)れにけり、とさへ誤(あやま)れり、
あこぎといふ名の事、或云(あるいう)、「濃」の字をコギと読(よみ)て、安濃浦を誤りたるか、又云(またいう)、「あこ」とは海子の事にて、「き」とは木なるべし、これは鹽木をここに積(つみ)たる事の多きによりて、あこぎとはいひたるにや……
そんな短歌があるそうです。あこぎの浦は、お伊勢神宮専用の漁場だから、一般の漁師は魚を捕ってはならないのに、そこでこっそり鯛を捕まえるような、あなたと私のデートだけど、それが度重なればみんなに知られてしまうわ、という内容です。
だったら、デートなんかするな! と、つっこみたくなるけど、人に知られてもいいから、こっそり会いましょうね、という意味だから、つっこまなくてもいいのかな。
かくして私は海辺にポツリ。干潮で漁師さんたちがあちらこちらで貝を捕っているようでした。
カモメたちもおこぼれをもらえるのか、それとも自力で貝拾いなのか、汀でみんなで貝まつりをしていました。ああ、ゆっくりだけど春は近づいているんですね。そうか、花粉症が始まりそうな気配なんですね。