52【死屍に( )打つ】……死んだ人のことを非難したり攻撃したりする。死体を傷つけてうらみをはらす。《史記・伍子胥(ごししょ)列伝》 空欄に人を傷つける道具を入れてみてください。
司馬遷さんは、わりと褒めています。たぶん、取材のために中国の南部の呉(ご)、楚(そ)などを歩いたことでしょう。そして、そこに昔の人々の空気を感じた。伝説を集めるうちに、人々から亡くなってから何百年も経過してなおさら支持されていることを知る。そして、さらに興味の湧いたことでしょう。
人はどんな人にあこがれ、どんな人が歴史に残るのか、どんな高貴なお方でも、何にもなければ人々からは忘れ去られ、それほど高貴な人でなくても、その情熱や魂の感じられる人・特に恨みを抱いてなくなった人のことを人々は忘れないのだと実感することができた。
だから、どうしても項目を立てなくてはならなくなったのです。それくらいドラマのいっぱいつまった人だったように思います。
太史公(たいしこう)言う。怨恨(えんこん)が、人に及ぼす害毒は、何とはなはだしいものだろうか。王者さえ、臣下に怨毒を売ることはできない。まして同輩においておやである。もし、さきに伍子胥(ごししょ)が奢(しゃ)の招きに応じ、父とともに死んだとすれば、なんのケラ・アリと異なるところがあろう。
さればこそ、小義理をすてて大恥辱(だいちじょく)をそそぎ、名を後世(こうせい)に残した。その志や、まことに悲壮である。子胥(ししょ)が長江の岸に追いつめられ、あるいは路傍に乞食(こつじき)したときも、その志かつて、しばらくも楚の都・郢(えい)を忘れたであろうか。
さればこそ、隠忍(いんにん)し功名(こうみょう)を成就(じょうじゅ)したのである。烈(れつれつ)々たる丈夫(じょうぶ)でなくて、誰がこれをなし遂げられよう。
というふうに、褒められています。耐えがたきを耐え、見事に自らの恨みをはらしたのは見事だという。
はたして、どんなことをした人なんでしょう。
伍子胥(ごししょ)さんのお父さんは、楚ではそれなりの家格の人であった。名前を伍奢(ごしゃ)と言います。楚の王様は平王でした。その太子に建(けん)という人がいて、この人のもとで将来は王になるような教育係みたいなことをしていたようです。
その仕事仲間で、とんでもないヤツがいて、太子のお嫁さんを強国の秦からもらおうということになって、使いに行くと、そのお嬢様がとてもキレイなので、ピンときたとんでもないヤツは、主人である太子のことはおいておいて、この秦のお姫様を使って平王に取り入ろうとしたのです。
王様には言います。「秦のお嬢様は、とてもキレイで、王様が妃に迎えられた方がよろしいです。息子さんの太子さんには、他のお嬢さんでもあてがったらいいです」と進言するのです。
それに乗っかるのか昔の王様で、「それでは、その通りにしよう」と、秦のお姫様を自分のものにします。
そして、おきまりは、女を取られた息子の太子をけむたがり、遠ざける。新しいお妃さまは男の子を産んで、次の後継者になってしまうのです。邪魔なたくさんの王子様たちは殺されてしまいます。
伍奢(ごしゃ)さんは、もちろん王様に忠告します。そんなことでは社会が乱れますし、お父様のことを1番考えておられる王子様をないがしろにするなんて、それは間違っていますと。
もちろん王様は聞き入れず、伍奢(ごしゃ)さんは捕らえられ、その二人の息子にも、「父の命を助けて欲しかったら、今すぐ助命に来い」ということでした。
兄は、父のことを思い、王の元に行きます。弟は、どうせ助からないのだから、復讐をしますと、国外逃亡を試みます。父と兄は処刑され、弟の伍子胥(ごししょ)さんはボロボロになって呉(ご)の国に流れ着きます。
ここで復讐ができる立場になるまで、チャンスを求め、策略をめぐらし、強力な助っ人の孫武(そんぶ)まで連れてきて、呉の力で楚の都にまで攻め込み、父や兄の恨みを晴らそうとします。
すでに平王は亡くなった後であったので、仕方なく墓から王のなきがらを掘り出し、人の道に外れるような過激なことをしでかしてしまいます。これだけで歴史に残ったわけではありませんが、過激であることは確かで、あまり勧められる行為ではありません。
でも、現代の社会でも、そういうことは大なり小なり、あるような気もするのです。
★ 答え・鞭(むち)……死者にむち打つ、死屍(しし)にむちうつ
司馬遷さんは、わりと褒めています。たぶん、取材のために中国の南部の呉(ご)、楚(そ)などを歩いたことでしょう。そして、そこに昔の人々の空気を感じた。伝説を集めるうちに、人々から亡くなってから何百年も経過してなおさら支持されていることを知る。そして、さらに興味の湧いたことでしょう。
人はどんな人にあこがれ、どんな人が歴史に残るのか、どんな高貴なお方でも、何にもなければ人々からは忘れ去られ、それほど高貴な人でなくても、その情熱や魂の感じられる人・特に恨みを抱いてなくなった人のことを人々は忘れないのだと実感することができた。
だから、どうしても項目を立てなくてはならなくなったのです。それくらいドラマのいっぱいつまった人だったように思います。
太史公(たいしこう)言う。怨恨(えんこん)が、人に及ぼす害毒は、何とはなはだしいものだろうか。王者さえ、臣下に怨毒を売ることはできない。まして同輩においておやである。もし、さきに伍子胥(ごししょ)が奢(しゃ)の招きに応じ、父とともに死んだとすれば、なんのケラ・アリと異なるところがあろう。
さればこそ、小義理をすてて大恥辱(だいちじょく)をそそぎ、名を後世(こうせい)に残した。その志や、まことに悲壮である。子胥(ししょ)が長江の岸に追いつめられ、あるいは路傍に乞食(こつじき)したときも、その志かつて、しばらくも楚の都・郢(えい)を忘れたであろうか。
さればこそ、隠忍(いんにん)し功名(こうみょう)を成就(じょうじゅ)したのである。烈(れつれつ)々たる丈夫(じょうぶ)でなくて、誰がこれをなし遂げられよう。
というふうに、褒められています。耐えがたきを耐え、見事に自らの恨みをはらしたのは見事だという。
はたして、どんなことをした人なんでしょう。
伍子胥(ごししょ)さんのお父さんは、楚ではそれなりの家格の人であった。名前を伍奢(ごしゃ)と言います。楚の王様は平王でした。その太子に建(けん)という人がいて、この人のもとで将来は王になるような教育係みたいなことをしていたようです。
その仕事仲間で、とんでもないヤツがいて、太子のお嫁さんを強国の秦からもらおうということになって、使いに行くと、そのお嬢様がとてもキレイなので、ピンときたとんでもないヤツは、主人である太子のことはおいておいて、この秦のお姫様を使って平王に取り入ろうとしたのです。
王様には言います。「秦のお嬢様は、とてもキレイで、王様が妃に迎えられた方がよろしいです。息子さんの太子さんには、他のお嬢さんでもあてがったらいいです」と進言するのです。
それに乗っかるのか昔の王様で、「それでは、その通りにしよう」と、秦のお姫様を自分のものにします。
そして、おきまりは、女を取られた息子の太子をけむたがり、遠ざける。新しいお妃さまは男の子を産んで、次の後継者になってしまうのです。邪魔なたくさんの王子様たちは殺されてしまいます。
伍奢(ごしゃ)さんは、もちろん王様に忠告します。そんなことでは社会が乱れますし、お父様のことを1番考えておられる王子様をないがしろにするなんて、それは間違っていますと。
もちろん王様は聞き入れず、伍奢(ごしゃ)さんは捕らえられ、その二人の息子にも、「父の命を助けて欲しかったら、今すぐ助命に来い」ということでした。
兄は、父のことを思い、王の元に行きます。弟は、どうせ助からないのだから、復讐をしますと、国外逃亡を試みます。父と兄は処刑され、弟の伍子胥(ごししょ)さんはボロボロになって呉(ご)の国に流れ着きます。
ここで復讐ができる立場になるまで、チャンスを求め、策略をめぐらし、強力な助っ人の孫武(そんぶ)まで連れてきて、呉の力で楚の都にまで攻め込み、父や兄の恨みを晴らそうとします。
すでに平王は亡くなった後であったので、仕方なく墓から王のなきがらを掘り出し、人の道に外れるような過激なことをしでかしてしまいます。これだけで歴史に残ったわけではありませんが、過激であることは確かで、あまり勧められる行為ではありません。
でも、現代の社会でも、そういうことは大なり小なり、あるような気もするのです。
★ 答え・鞭(むち)……死者にむち打つ、死屍(しし)にむちうつ