9月1日、ヤフーからブログは削除されました。一時期、ヤフーで書いていたことのある私は、そこに残していた文章をコピーして、こちらに持ってきました。
大半はつまらないことしか書いていないし、今もそうなんですけど、とにかくその時に気になったことを書き散らしているようです。
2013年の8月の終わりころ、岩波文庫のヒルティ「眠れぬ夜のために」を少し読み、気に入ったから抜き書きをしたようでした。
どこがその時のツボだったんだろう。
まことの人生の楽しみを得ようと思うならば、なによりもまず、その楽しみがいったい何にあるかをはっきりさせ、それを妨げるすべてのものを、断然さけなければならない。
そんなに新鮮な意見ではなくて、ごく当たり前のことだと思われます。人生は短く、やりたいことは多い。でも、たいていのことはできないのだから、厳選してやっていくしかないのです。
いかんながら、われわれはすでに人生も半ば以上をすぎた時に、ようやくそこにたどり着くのが普通である。またもし余生がいくらも残されていないなら、ある程度のペシミズムに陥ることは、このような経験の避けがたい結果であろう。
人生の半ばを過ぎて、今までの人生を振り返ってみれば、何もできていないことに気づくのが普通で、ショックを受けたり、哀しくなったりします。そんなの当たり前です。
特定の事柄について十分に熟考し、かつ賛否の理由をのこらず検討することによって……なお一層よいのは、自分の生活経験を通じて、…… 一旦はっきりした見解に達したならば、その問題はそれで片づけてしまい、それ以上の検討を一切やめなければならない。
過去のあれこれでクヨクヨすること、過去だけではなくて、未来に関しても、自分がしたことがどんなふうに影響を及ぼすのか、あれこれ悔やんだり、悩んだりするのは良くないことである。
これもそうだと思う。過去は変えられないし、自分はいつもその時の最善を尽くしているはずだし、後から悔やまれたとしても、結局自分はその程度の最善しか出せない人間なのだと諦めねばならない。
疑いはどんなことに対しても起こりうるもので、とっくに片づいてしまった事柄についてさえそれは起こる。人間の心の最も不幸な状態は、いわゆる傍観主義であって、これは結局、一切のものを疑うようになるのである。
これはどういうことだろう。
あまり物事に関わろうとしない、適当にしか自分を出せていない時、そういう場合は、「そんなのどうでもいいじゃん」とか、「どうせボクには関係ないよ。他のヤツらが適当にやっているんだろ。つまんないことばかりしやがって!」みたいな感じになりますね。
こういう態度、我が道を行くスタイルは、楽なのかなと思ったら、そうではない!
というふうにヒルテイさんは言うのでしょう。
無関心というのは、実はイジけた人のすることで、他人に対して被害妄想が広がったり、疑心暗鬼になったり、心を乱されたくないと無関心になったのに、逆に心が乱れまくることがあるのかもしれない。だったら、無関心ではいけない!
人の心は、最後にいつか「堅固」にならねばならない。これはただ神の「恩寵によって」のみなされると使徒が言っているのは、たしかに正しい。しかし恩寵が与えられたならば、それを受け取り、そしてひとたび受け取ったならば、固くそれを守らねばならない。そうでなければ、その人は愚かな人間であって、いつまでも不安定なのは当然である。
人の強い心って、何かに支えられてなくてはならなくて、無関心のポーズからは何も生まれない。ひたすら一つの思いをキープできるのは、宗教的な信念というのか、強い意志・願望によって維持されていく。
でも、たいていの人は、自分が人生において獲得できた強い信念みたいなものを守り続けることが苦しくなるのだと思われます。
そして、時々は怠ってしまう。そうして自分の値打ちを下げてしまう。
だから、あれこれ手を出すのではなくて、自分が得た最小限のものに自足して、手元のわずかな事柄をひたすら守り続けるしかない。それが「愚か」から逃れられる道だ、というんでしょうか。
以下の文章は、2013年に書いたもののようです。
* 人が何かを楽しいと感ずるのは、それが「神の恩寵」ということだそうです(なかなかそういう考え方はできないけれど……)。だから、折角楽しいと感じたら、それを最大限感じられるように努力するのが、神から与えられた使命ということになるのでしょう。
そして、できることなら、その楽しさを邪魔するもの(気を散らすもの?)を避けた方がよい。人生は有限なので、できるだけ節約して生きていかなければならないのは、その通りです。でも、そんなに楽しみばかり追求していられなくて、楽しみを邪魔するものと仲良く過ごすのも人生かな……?
* その反対の、人の心が不幸を引き起こすもの、それは傍観主義だヒルティは言います。自分には関係のないことだと黙って見ている、もしくは関心も示さず無視している、その傍観主義を生むものは、自分には関係がないのだからとか、どうせ何をやっても同じよという無気力な気持ちであったり、どうせあいつは私のこと信じてないのだという傍観主義です。それが不幸をもたらす。
不幸から抜け出すには、何事にも挑戦し、声をかけ、人と関わっていくことなのでしょう。できれば、人を疑わず、だまされ続けてもいいから、信じていけたら、それは幸福ということらしい。少し難しいが、私でもできそうな幸福です。
こんなことをヒルテイさんは仰っているのかな。2019年の私にはわからなくなりました。
「眠られぬ夜のために」という本、やはり、私には続けて読めそうにありません。すぐに諦めて放り出してしまいそうです。これは今の気持ちです。
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