今月の21日・木曜日の朝日の夕刊に、社会活動家の武藤一羊(いちよう)さんという方の記事が載っていました。父より一つ年下で、もう八十代後半になられるそうです。
お父さんは「満州国」の高級官僚になって三歳の時に新京(長春)に移り住んだ。
「植民地の支配民族である日本人の、そのまた支配階級の一員。満人と呼ばれた中国人に向き合って暮らしていた。子どもであっても日本を背負ったような緊張感の中で、どこか突っ張っていたんです」
ということでした。
1934年から1943年までの9年間を満州で過ごしてきて、中国の人に対して何とも言えない感じを持ち続けたそうで、記事では
日常接していながら、中国人は向こうにいる大きな不可解な存在だった。(満州国の)建国十周年式典に学校全員で参加した時、突然ビラがまかれ騒然となった。大学生の危険思想のビラだといううわさを聞く。「日本人の暮らす世界の外側に、何か別の世界がある」と感じた。
この大学生とは、日本人だったんだろうか。それとも中国人の大学生? たぶん、日本人の若者を受け入れる日本人専用の大学が向こうにもできていたんでしょうか。軍国主義的な大学教育をしていても、跳ね返り者はいたのかもしれない。
何とも言えない居心地の悪さをみんなが感じていて、それが突発的な行動に走らせたのか。そして、すぐに取り締まられたのか。すべては闇に消された歴史ですね。
十二歳で帰国したそうで、その時は日本は戦争二年目で、わりとのん気だったのかもしれなくて、
敗戦の二年前に帰国した時も戸惑いを感じた。人々は日本語だけをしゃべっている(英語は禁じられていたでしょう)。戦時下なのに「和気あいあい」とした気配。こんな国のために、異民族に対して突っ張ってきたのか。軍国少年には内地の空気が許せなかった。それ以来、日本という国家と自分が対立する感覚は、ずっと残っている。内と外を分け、一見和気あいあいとした社会への違和感は、戦後も抱き続けた。
それから、社会活動に身を投じ、原水禁の運動、ニューヨーク州立大教授などを経て、現在はピーブルズ・プラン研究所運営委員をされているそうです。
旧制中学時代に、恩師から貴重なことばを聞かせてもらうそうで、それは省略しますが、いろんなことばと、小さい頃の体験がこの人を形作ったのだなと思うと同時に、先端の人は外の世界を感じているのだとふと思いました。
日本海で木造船の警備にあたっている海上保安庁の方々や漁師さんたち、南スーダンに派遣された自衛隊の人々、尖閣諸島の警備をしている人たち、普天間基地の周辺に住む人々、根室でロシアの警戒に当たる人たち、もっともっとたくさんの先端の人たちがいるかな。
大谷くんも、エンジェルスに出かけて、先端でMLBという世界を感じるでしょうし、二月にピョンチャンに出向く選手たちも先端を感じるはずです。
そうした先端を感じる人たちは、日本でやっているのとは違う緊張感と誇りと怖さに立ち向かい、毎日がヒリヒリしっぱなしで、ものすごく疲れると思う。
それに比べて日本国内は、昔も今も、ヌクヌクすることがいいことだみたいにして、あまりまわりを見ないで、自分のことだけに終始している。
もちろん私もそのヌクヌク野郎です。日本という閉鎖された土地に住み、ほとんどよそを意識せずに、だらしなく過ごしている。世界はとてもめまぐるしく動き、食うか食われるかでやっていて、お互いをつぶしあいしかねない、パランスを崩しまくりの中でなんとか自分たちの世界を維持しようと戦っていることでしょう。
それくらい、内と外がなくて、お互いが侵し侵されしているはずです。日本は、最先端の人だけがそういうものを肌で感じ、ものすごい緊張感をあじわっている。
イチローさんも四十四歳まで経験してきて、なおも続けたいと思っているのに、オーナーやフロントの人たちの固定観念により、雇ってくれるところがなさそうになっている。
私は、そうした先端にこれから行きますか? たぶん行かないまま、ヌクヌクとして文句ばかり言っているでしょう。そんなのは本当に何にもならない。
少しでも世界を感じられる耳と目を持ちたいです。